日建設計CM「新林」に掲載いただきました

日建設計コンストラクションマネジメント「しんりん」第6号に神山しずくプロジェクトが掲載

こんにちは。神山しずくプロジェクトの渡邉です。
おかげさまで一ヶ月という「間」をいただき、たくさんの事柄が見えてきました。
ここからまた、来月迎えるしずくプロジェクト10周年とその先に向けて動き出していこうと思います。

さて、今日は記事掲載のご案内です。
オンラインでもお読みいただけますので、ぜひご覧くださいね。

日建設計コンストラクションマネジメント「しんりん」第6号に神山しずくプロジェクトが掲載

日建設計コンストラクション・マネジメント株式会社が発行するサスティナビリティ関連情報誌「新林(しんりん)」。

第6号のテーマは「今、木を伐る理由を考えてみる」

山林活用での地域活性で有名な西粟倉村の事例や、防災の観点から取り組む神戸市の記事とともに、環境改善を目的とし個人が関われるプロジェクトとして、神山しずくプロジェクトをご紹介いただきました。

日建設計コンストラクションマネジメント「しんりん」第6号に神山しずくプロジェクトが掲載

発行元である日建設計CMは、東京スカイツリー(徳島県内では、阿南市役所や阿波銀行 本店営業部)等の設計を行なっている日建設計のグループ会社です。

「新林」は社会問題解決へ向けた取組みとして「森林」についてともに考え、学ぶ媒体として創設されました。

日建設計コンストラクションマネジメント「しんりん」第6号に神山しずくプロジェクトが掲載

本来の建築材という価値から離れた神山杉を、建築分野の方々からご紹介いただけるとは思いがけず嬉しいことです。発行の挨拶には「だれかひとりの力では成し遂げられないこと」と、業界や枠組みを越えることの大切さが書かれていました。

この記事がまた新たなきっかけになることを願っています。

 

 

【代表廣瀬の特別連載④】SHIZQの源流をたどる <希望をデザインする神山>

旅の最終日、廣瀬は、The smashing pumpkins(スマパン) を思い出し、昔のように聴きながら走った。

当時、スマパンの曲に重ねていたのは、スティード400のエンジン音。
長髪の「赤パンのジェロ」は、風に髪を靡かせて走った。

今は、ハーレー独特の、太いエンジン音が、スマパンにうまい具合に重なる。

あれから、何があったろう。

20歳前後は、短期の仕事で稼いでは、北海道に戻って旅をする日々だった。旅の途中も、お金がなくなったら、その土地土地で働いた。雪が降り出す頃に、北海道を脱出し、紅葉と共に本州を南下し、また都会に戻った。

美瑛の丘 愛車スティードと共に

美瑛の丘 愛車スティードと共に

そんな暮らしが数年続いた頃。
地元の同級生たちは、社会人として、どんどん立派になっているように見えた。

 

ある日、稚内のノシャップ岬で決意した。

旅から、足を洗おう」。

関西に戻って働き始めた廣瀬は、旅仲間になかば強引に、北海道に連れ戻されることもあったが、次第に都会の生活に慣れていった。
90年代のクラブカルチャー全盛の頃。出入りするようになった大阪や京都のクラブで、次第に運営側に回るようになり、イベント企画やプロモーションのようなことを始め、独学でフライヤーを作ったり、映像アーティスト(VJ)として活動した。これを機に、商業デザインに興味を覚える。デザイン会社に潜り込んだり、某大学のインハウスデザイナーとして経験を積んで5年。クリエイターとして、仕事ができるようになっていった。専門的にデザインを学んだことはないのに、本質を突く廣瀬の仕事は、業界で高く評価された。

先の尖ったピカピカの革靴、ブランド物のジャケット、撫で付けた髪の毛。
クリエイターにとって、洒落たパーティーに招待されることがステイタスでもあった。廣瀬も、その中にいたが、セルフブランディングに躍起になっている人たちと飲んで、よく喧嘩した。

「このグラフィックどう?上手いでしょ」
「うーーーん…上手いってなに?」

「このタイポグラフィの良さ、わかる?」
「うーーーん…でも、それで伝わってる?人集まったの?」

デザインの役割というのは必ずあるのに、当時のデザインの在り方には、違和感があった」。

北海道で地方の豊かさを痛感した廣瀬は、独立当初、目指す「暮らし方・働き方」のビジョンをはっきりと持っていた

ゆくゆくは都心ではなく和歌山あたりの田舎に、古い工場を改装して広いオフィスを持つこと。
みんなが思い思いの場所で、自由に仕事をするスタイルをとること。
オフィスを一歩出ると、そこには畑や川があって、畑いじりや、釣りを楽しみしながら、世界に通じるデザインをすること。

今でいうコワーキング、ワーケーションが定着する20年も前のことだ。美容師に憧れた頃の個室対応のお店のように、自らの中から湧いてきたイメージだった。

そして、2011年3月11日。
東日本大震災があった。

クリエイターの間に、ふるさとや、思い入れのある大事な「まち」と自分との関係を見直す動きが小さく生まれた。仕事を離れて、クリエイターが自分と向き合い、まちへの思いを小さな冊子にする「マチオモイ帖」の活動が始まる。

当時、廣瀬は大阪のデザイン業界にいて、「わたしのマチオモイ帖制作委員会」の最若手として活動に加わった。普段は、広告やプロモーションなど、商業的な仕事を受けるクリエイターたちが、街や自分に向き合う。「僕らの能力って、社会を変えることもできるんじゃないか?」と、感じるようになった活動だった。

大阪から始まったマチオモイ帖は、全国を巻き込み、2012年2月、クリエイターの憧れでもある東京ミッドタウン デザインハブでの大規模な展覧会に発展した。
東京ミッドタウン・デザインハブ特別展「my home town わたしのマチオモイ帖」は、会期17日間で7400人以上が来場、デザインハブの展覧会の中でも大盛況だったという。

デザインハブは、クリエイターにとっては憧れの地。廣瀬は、現場の空間設計や什器制作、展示システム、WEBサイト構築など、裏方の仕事に徹した。作品のぬくもり、マチオモイ帖の世界観が感じられるよう、ペンダントライトをアイキャッチに、シンプルな木のテーブルや布を使った空間デザインは好評を博した。

10年経っても忘れられない会話がある。このオープニングパーティーでの出来事だ。

クリエイター憧れのデザインハブで、大仕事をやり遂げ、廣瀬は天狗になっていた。

会場で、ITベンチャー「ダンクソフト」の副社長、渡邉徹さんと出会った時の会話、
神山町って知ってる?いまSO(サテライト・オフィス)の実証実験やってるんだ。
古民家のこたつに座って開発したり、神山の環境を楽しんだり」。

10年前に描いたビジョンとピッタリ重なった
この瞬間まで廣瀬は、社会のトレンドに巻き込まれ、東京で天狗になっていた。
今の自分は、どこに向かっていたんだ。やりたかったことを何もできていない。

 

まさか、このタイミング、六本木のど真ん中で、
自分のビジョンを思い起こすことになろうとは、まさに青天の霹靂だった。
この日を境に、廣瀬は自分を取り戻す。

パーティーから2ヶ月後、神山を初訪問した廣瀬は、6ヶ月後にはもう引っ越していた。

当時40歳。

「独立して10年、社会の大きい渦の中で、揉まれて、自分を失っていこうとしている中だった。
その時、”お前、そっちじゃないだろう?”と神山に引っ張られた感じがします」

古民家に引っ越して、地域の人とつながると、おすそ分けをたくさんもらった。
「野菜、もってけ!お返し?お前、そんなもんいらん!」
廣瀬が過ごしてきた消費社会とは全く違う、あの時、旅で見た地方の豊かさが、ここにある。

神山では、毎日がキャンプのようだ。
相変わらず、仕事は忙しかったが、
薪ストーブで暖をとり、川や湖で釣りに興じている。

思い描いていた暮らし方、働き方だった。

豊かな自然環境だと思っていた神山。
暮らしてみて、初めて気づくことがある。

町を流れる鮎喰川の水が、3分の1まで減っているという。
神山町に全体に広がる針葉樹の山々は、高度成長期に作られた人工林。
単層林に変わったことで、森林の持つ水源涵養をはじめとした公益的機能が失われつつある。

儲からないという理由で、切らなくなった杉は、
戦後70年を迎え、いよいよ大きな影響を及ぼしている。

水が無くなったら、神山に住めない。
どんなに神山が好きでも、住めない。
地方創生を進めたとしても、水が枯れたら、住めない。

一番、解決しないとならないのは、人口減少よりも環境だ。
同じことが全国で起こっているはずだが、ほとんど着目されない。

環境の問題は大きすぎる。
町民ですら、諦めている大きな問題だ。

「この真っ黒なオセロの盤面をどうひっくり返すか?」。
廣瀬は考えた。

杉の新しい価値を見出し、杉の利用を広げよう。
森と人の循環を創造し、社会の行動変容へ繋げよう。

2013年、神山しずくプロジェクトは「そんなもんできるわけがなかろう」という嘲笑の中で生まれた。

SHIZQのカップで利益を出すことが、最終目的ではない。
カップは、活動のアイコンとして、山林と水源への気づきをもたらすためのもの。
神山しずくプロジェクトは、単純な「商品の販売」ではなく、社会に「意識変容」を促す”活動”なのだ。

僕が最初のオセロの白だとすると、SHIZQのカップを持ってる人は、もう1枚の白なんです。
僕とその人との間にいる人も、白に変わる。
僕ひとりではできないけど、盤面を白く変えられる

小さな力で、盤面をひっくり返すために、都会で経験したことを活かす。
ブランディングという名の反逆のプロパガンダだ。

ミラノ万博に出展したり、日本のGOOD DESIGN賞、イタリア国際デザインコンペのソーシャル部門で金賞を受賞したり、農水省と内閣府の賞を受賞したのも、はっきり言って、廣瀬の戦略である。10年経って、ようやく事業が回り始めたが、廣瀬は、神山しずくプロジェクトには投資するばかりで、対価はもらっていない。次の世代のために循環させることが目的だからだ。

廣瀬は、森や水源に対して、無関心な世の中を大きな湖に例える。
高度成長期、バブル経済、リーマンショック、コロナ、紛争、
いろんなものが撹拌され過ぎて、何が大事なのか見えなくなった社会は、
「思考停止」「無関心」な、まるで凪の湖。

そこに、一滴の”しずく”を垂らすことで、波紋を生みたい
この”しずく”の純度が、高ければ高いほど、社会に広がるんじゃないか。

だから、活動の純度を高くすることにおいて、SHIZQは妥協したくない。

SHIZQのメンバーは、毎年冬の伐採期、山に入って、自分たちで木を伐る。
鮎喰川の支流の水を引いた田んぼで、無農薬の米を作る。
SHIZQの職人は、地元の炭を使って鍛治仕事で刃物を作る。

ミシ..バリバリバリ!ドッシンッ!

廣瀬は、初めて木を伐った時、直感的に気付いたと言う。

「木は”生き物”だったんだ。命をいただいている」

木を伐ることで、一帯の環境が変わる。
全部、繋がっている」。

だから、神山しずくプロジェクトでは、伐った杉を余すことなく使う。
これでもか、というくらい、一貫した哲学で動いている。

「マーケットはそこにはない。
SHIZQは、ゼロからマーケットを作っているんです。
僕は、希望をデザインしている。
実は、何度もやめようと思ったけれど、
SHIZQを始めてからの僕の10年は、そこに希望があるから続けてこられた。
小さくていいから、若い世代に、いい感じのバトンを渡していきたいんです」

振り返ってみると、廣瀬には10年ごとに人生の節目があるようだ。
20歳の北海道、30歳でデザイナーとして独立、40歳の神山移住、そしてSHIZQ10年目の50歳。

社会のパズルに、自分のピースがハマらず、自分を持て余していた10代。
北海道の旅で、廣瀬圭治という独自の方程式を持つピースが生まれた。
その方程式を社会に試すように訓練をしていたのが、30歳をまたぐ大阪での10数年だった。

そして、神山に出会い、方程式の原理に合わせて、行動を起こしたのが40歳からこれまでだったのだろう。

スティードの頃は、若くて自由、軽快なエンジン音で走っていた。今は、ハーレーの重みのあるエンジン音が、しっくりくる。実はこのハーレーは、創業100周年記念モデルの2003年製、廣瀬がデザイナーとして独立した年に作られた。北海道から戻って、迷いながらも自分で道を切り開き始めた年。不思議な縁、タイミングを感じる。

旅の最終日、ふと思い出してSpotifyでスマパンの「Siamese Dreams」を呼び出した。バイクで走りながら聴くのは、本当に久しぶりだ。

1曲目の「天使のロック」で
イントロから、涙が溢れてきた。

2曲目の「Quiet」の疾走感で、
アクセルを開ける。20歳の自分が蘇ってきた。

3曲目の「Today」で、広大な青空と一本道の風景と自分が一体に。
「武装解除」「宇宙兄弟」、当時のことが走馬灯のようにめぐる。

最後の2曲「Sweet Sweet」「Luna」で次第に気持ちが落ち着き、周りの景色を見る余裕が生まれてきた。

なぜ、廣瀬は、50歳というタイミングで、北海道に再び戻ったか?

廣瀬の持っていたパズルのピースは、20歳の北海道で解き放たれた。

パズルの穴に嵌め込まれることから、自由になり、自分の核となる生きる姿勢、明確な美の基準が形成された。

結果的に、廣瀬の中の「核」が蠢き続けた結果が、今の神山しずくプロジェクトだったとも言えるだろう。今、廣瀬は、炎の玉のようにエネルギーをまとったピースを、社会というパズルの大きな枠そのものに投げかけている。

「その価値観は、本質的なのか?」
「思考を、止めるな」
「行動し続けろ」

廣瀬の投げかける提案や想いは年々、重く大きくなっているが、共感してくれるスタッフやファンも沢山居る。


「これまで暗中模索しながら
信じてやってきたことで
より深く将来の在るべきビジョンが見えてきました。
今度は、そこに向かって一歩踏み出そうと思う」

2023年7月。
神山しずくプロジェクトは、10周年を迎える。
廣瀬のこれからの10年は、今はじまったばかりだ。

【代表廣瀬の特別連載③】SHIZQの源流をたどる <木目の美と静寂を感じる阿寒>

マリモと温泉、アイヌコタンで有名な阿寒湖は、活火山阿寒岳の影響で、硫黄の匂いが漂う。廣瀬にとって、思い入れのある場所だ。北海道に来ると、必ず阿寒に帰るという。故郷は兵庫だが、阿寒にも「帰る」という表現を使う。

廣瀬はその日、阿寒湖畔で、風を感じるような木の彫刻作品群の前に立っていた。

アイヌの村の守り神、「コタンコロカムイ」と呼ばれる「島梟(シマフクロウ)」の彫刻がいくつも佇んでいる。

こちらを睨み、
豊かに伸びる羽、
膨らむ胸の羽毛が、威厳ある老王のような神の姿を思わせる。

よく見ると、
瞳孔が、木目になっている。木目がそのまま、こちらを睨んでいる。

作品によって、
木目に沿ったり、
木目に反したりと
ノミで繊細に入れられた傷が、毛の息遣いを想像させる。

曲がり、伸びていく木の流れが、そのまま像の動きになっている。

だから、
木目の動き、木の流れの線が
周りの空気の流れにまで伸びているように錯覚し、
周辺の空間にまで影響を与えている。

まるで、木の中にいるカムイ(神)を掘り出したかのように見える。

木の中にいるカムイ

瀧口正満さん作 森の王様

彫刻家、瀧口政満さん(1941年~2017年)は、その阿寒湖畔のアイヌコタンで50年以上、木彫りを続けた北海道を代表する彫刻家だ。

自然に争わず、ねじれのある古木や埋もれ木、流木を素材として、ねじれやこぶ、年輪の姿をそのまま生かした作品を残した。実際、瀧口さんは「木の中に彫り出す像が見える」と周辺に語っていたという。

廣瀬がいたのは、ホテル「あかん悠久の里 鶴雅」の「ギャラリーニタイ」だ。ニタイは、アイヌ語で「森」を表す。このホテルは、生前の瀧口さんの作家活動を支え、今も作品を数多く収蔵している。廣瀬は、ずっとギャラリーに滞在し、じっくり瀧口氏の作品一体一体を感じていった。

瀧口正満さん作 想い

瀧口正満さん作 想い

瀧口さんは、幼い頃から耳が聞こえなかった。「聞こえない分、頬に触れる風、体を伝わる風で世界を感じていたんじゃないかな。だから、風を感じるのかもしれない」と廣瀬は考える。

木彫りの土産物屋を営みながら、作品を作っていた瀧口さんの店は、ホテルから歩いてすぐのアイヌコタンにある。アイヌ文化を受け継ぐ人たちが暮らす阿寒の中でも、アイヌの血筋の人が一番多い通り、その中腹にある店が、瀧口さんの「イチンゲの店」だった。

久しぶりに入ると、瀧口さんの息子、健吾さんが気づいて迎えてくれた。30年ぶりに会うというのに、廣瀬のことを覚えていた。30年前、1ヶ月ほど滞在した長髪の「赤パンのジェロ」は印象的だったという。

そう。30年前、若き日の廣瀬はバイク旅の途中、瀧口家で住み込みのアルバイトをしていた。たまたま入った店で、店番をしていたバイク旅の若者と仲良くなり、その縁で秋の「まりも祭り」期間中、店番を引き継ぐことになった。

作家さんと話したいというお客さんが来ると、木彫りに集中している瀧口さんを奥まで呼びに行き、耳の聞こえない瀧口さんとお客さんの間を取り持つ。観光客への接客の他にも、他のお店で同じように働く旅暮らしの若者と仲良くなったり、犬の散歩やお使いに出たりもした。

そして、少しだけ木彫りをやらせてもらうこともあった。

旅に出て初めて家族や土地の温かさをゆったりと感じた。のんびりした暮らしだったが、廣瀬の五感は、大いに刺激を受けていた。

阿寒湖の湖岸に立つと、廣瀬の足元とほとんど同じ高さから、波もなく静かな湖面が広がっていく。
周辺には、うっすらと硫黄の匂いが漂っている。オンネトーの五色の湖の美しさは格別だ。

瀧口家で出される、アイヌの食材、ギョウジャニンニクのお漬物、何かとご飯に載せて食べるスジコ。瀧口さんと妻の百合子さん、当時、中学生だった、健吾さんとの家族の温かな会話。

瀧口さんはお酒を飲んで、気分が良くなると、手話の動きも早くなった

「今日きたお客さんはどうだった」
「次、休み取れる時に、釣りに行こう」。

当初、廣瀬にとっての瀧口さんは芸術家という印象ではなく「耳の聞こえない、堅物の普通のおっちゃん」というイメージだったが、店番をしている中で、所狭しと置いてある瀧口さんの作品に、次第に魅せられていった。

「樹の人 瀧口政満作品集」(2019年、北海道新聞社)によると、瀧口さんは満州生まれで3歳ごろに耳が聞こえなくなり、戦後、4歳で山梨の父の実家へ引き揚げた。5歳で官立東京聾唖学校(元・筑波大学附属聴覚特別支援学級)に入り、以来、20歳の卒業まで寄宿舎生活を送ったという。この時に、木工やデッサンを習い、卒業後は工芸研究所で働いていた。旅に出た際にアイヌコタンでの木彫りに魅了される。そこでアイヌの血を引く百合子さんと出会い、東京を出奔した。他の店に間借りしながら修行し、自分たちの店を持った。店の名のイチンゲは、アイヌ語で「亀」。瀧口さんが自身を表してつけた名だ。

当時の廣瀬は、瀧口さんの背景は知らない。
が、今も決して忘れられない一晩がある。弟子屈町の山の中あった、瀧口さんのアトリエに同行した日のことだ。阿寒湖から約40キロ離れた場所に、軽トラに乗って2人で向かった先は、くねくねの山道。

瀧口さんは、とても楽しそうだった。言葉では語らないけれど、「俺の城が、どんな楽しいところか、お前にも見せてやる」。そんな印象だった。

着いた場所は、アトリエというよりも、隠れ家だった。

農家の納屋を改装した場所だった。雑然と道具や彫刻の材料になる木材が置いてあり、もので溢れていた。

製作途中の彫刻作品を前に、手の仕草で「このラインがいいんだ」と見せた。
工芸に携わる30年後の今なら、何がどう美しいのか、どこに魅力があるのか、言語化できる。しかし、当時はよく分からないなりに、廣瀬は心の中で「美しいのはもちろん、知ってるよ、綺麗で格好いいと思ってるよ」と答えていた。

瀧口さんの彫刻は、定石に捉われない。

整えられた木よりも、
泥の中に埋もれた木、海や川の流木などを好んで使う。
黒ずみの中に、曲がった形の中に息吹を見つける。
普通は、フォルムから入る設計図も作品の「目」から描き始める。

目をここに持って来ると、羽がここに伸びる。
像の姿が、彫る前から見えている。

薄暗いアトリエで、瀧口さんがひとたび作品作りに集中しはじめると、声をかけられなくなった。近くで見ると鬼気迫るものがあった。

彼と作品の間には、他のものは何もない。
作品に向き合うその姿勢に、本物の作家の世界を見て感動した。

空、林、風、雪。
聞こえるのは、風の音。
周りには何もない隠れ家で、廣瀬は静寂を感じた。
瀧口さんの世界は、その廣瀬よりも、さらなる静謐の真ん中にいる。

仕事が一息つくと、2人で露天風呂に入って夜空を見上げた。
瀧口さんは、廃材を集めて、アトリエのすぐ隣に露天風呂を作っていた。
ポンプで汲み上げた源泉を入れた、瀧口さんだけの「温泉」だ。

「このロケーションで貸し切り露天風呂だぞ!」と、
かなり自慢げに見えた。

湯に浸かりながら、空を見上げると満点の星空。
天の川を中心に集まる星々の間を、何度も流れ星が流れる。

「うわ、また飛んだ、また!」。

廣瀬は最初、湯に浸かりながらいちいち驚いていたが、そのうち流れすぎて風景の一部になった。

動物の目がピッぴっと光っているのが見えた。
キタキツネだろうか。
露天風呂の向こうの森から、廣瀬たち2人を観察して、動いている。

瀧口さんは、「これがいいんだ」と言わんばかりの表情で、黙っている。

瀧口さんが作品作りに没頭するのは、アイヌコタンに来る観光客の少ない厳冬の間。

雪が積もり、人も来ない山の中で木に向き合う。
この露天風呂に浸かり、星と動物と同じ目線で生きる。

これという会話は、ない。
言葉はなくとも、30年経っても大事な記憶だ。

30年ぶりに再開した瀧口健吾さんと一緒に

30年ぶりに再開した瀧口健吾さんと一緒に

30年後の廣瀬はイチンゲの店で、健吾さんと互いに近況報告をした。健吾さんは高校でオーストラリアに留学。バードカービングに出会い、木彫りに目覚めたという。帰国後、いったんは父の店で働いていたが酪農の仕事に就いた。ただ木彫りも続けていたそうで、お店を継いで木彫り作家として活躍。今では地元のアイヌの文化を後世に残す活動もしている。中学生だった彼は結婚もしていた。妻、綾子さんは阿寒の動物やアイヌの女性をモチーフに絵を描く画家。アイヌ古式舞踊の踊り手でもあるという。

健吾さんとは、地元の木のこと、文化の話しで盛り上がった。神山しずくプロジェクトの活動にも共感してくれた。

健吾さんが今まさに彫っている最中だという作品を見せてもらった。「死に節」を生かした作品だった。
死に節は、枯れた枝がそのまま幹に残ったもの。節の強度が弱く、色も黒いため、木材としての価値は低い。健吾さんの作品は、逆に節をペンの引っかかり部分にして、死に節を逆に生かすデザインだった。健吾さんオリジナルのアイヌ文様をあしらっている。

お土産に買いたい、というと健吾さんも思い入れがある様子。
「いやぁ、これは安くしたくないんだけど…」

「言い値で買わせてください」

瀧口さんのシマフクロウの像が、2人を見下ろしていた。

アイヌ文様の入ったペンとペン置き

健吾さんが彫ったアイヌ文様の入ったペンとペン置き

健吾さんとの会話の後、ゆっくりとある考えが廣瀬を捉えていった。
「僕のデザインは、瀧口さんの影響を受けているかも知れない」。

繰り返すようだが、木目に逆らい年輪を横にとるSHIZQのデザインは工芸としてはタブーに等しい。しかも、材木としては価値が低いとされている、赤目と白目に分かれた部分をデザインの美しさとして使っている。

このデザインゆえに職人に断られ続けた。

工芸とは畑違いの廣瀬が、職人に引き下がらなかった原動力はなんだったか?
旅から帰った廣瀬は、数ヶ月考え続けて、ようやく「この木目のデザインが絶対的に美しいという信念を貫き通せたのは、瀧口さんの影響だ」と確信する。

これまで、SHIZQの木目のデザインは、「自分の中から自然に湧き上がってきた」ものだと思ってきた。神山町に住んでみて、山の状況を目の当たりにして、なんとかしたいと思い、このデザインを生み出した。そう思っていた。

しかし、なぜ、自分は、神山町の杉ばかりの風景を見て、神山しずくプロジェクトという形にしたのか。杉を生かしたプロダクトを作るために、なぜ木目に着目したのか?

この時、「僕の中の”美しい”の原型みたいなものが形成されたのは、30年前の阿寒での経験だ、ということがわかった」。

あの頃があったから、今がある。

50歳を機に訪れた北海道の旅は、全く意図せず、自らの源流に気づきをもたらしていった。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=tT_1jvPHNb8&w=560&h=315]

 

【代表廣瀬の特別連載②】SHIZQの源流をたどる <タブーと正義を教わった稚内>

阿寒の風景

稚内に着くと、廣瀬は必ずある店に足を運ぶ。30年前、礼文島であの1週間を一緒に過ごした仲間Oさんの経営する居酒屋だ。

Oさんの釣ったサクラマスの塩焼き、タラバガニのクリームコロッケ、利尻昆布を食べて育った極上馬糞ウニ!どれもが感動でふるえるほどの美味しさだ。
注文もしていないのに、稚内や北海道の幸が、どんどん出てくる。満腹を超えて、さらにこれ以上は食べられない状態にまで満たされる。それでも、どんどん出てくる。絶品料理で満たされた後は、遠慮なく、お店の座敷で宿泊させてもらう。それでも、Oさんは、廣瀬には料理のお代も宿代も一銭も要求しない。

いつ行っても、お金を受け取ってくれない。だから、今回は帰り際、お札をレジに捩じ込んできた。旅も青春も一緒に超えてきた、朋友同士の小さな攻防である。
30年前、ライダーハウスでたまたま出会った2人は、変わらず、ずっとこんな付き合いをしてきた。

Oさんのお店で出てくる料理はどれも絶品

「当時の僕は、10歳年上のお兄さんのやることが面白くて面白くて」。

当時の廣瀬から見ると、何でも知っていて、かっこいい大人だった。その上に自然体で、いつもおどけて見せる姿が、チャーミングとあってOさんの周りには、人が集まり、笑いが絶えない。温厚であったかい。「冗談?」と、笑い飛ばしてしまう夢みたいなアイディアをOさんは本気でやった。

バカなことを実行するときでも、守らなくていい暗黙のルールと、守るべき節度は、キッパリと伝わってきた。「ここまでは、人間としてやっていいけど、これ以上は人間としてダメ」という価値観だ。

次第にOさんと一緒に行動する機会は、どんどん増えていった。

衝撃的な夜があった。後にも先にも、Oさんが旅仲間に本気でキレて殴りかかったのは、この時以外、見たことがない。喧嘩の原因は覚えていない。ただ、Oさんが怒った相手は、廣瀬の目から見ても、守るべき節度を超えていた。廣瀬を含め、男3人がかりで全力で止めたが、Oさんは、力士のようなしっかりした体つき。まるで戦車のようだった。あっという間に、吹っ飛ばされた。それでも止めないと大事になると思った。

「あんなに、人を必死に止めたのは人生で初めてだった」

それは、Oさんの中の「正義」を守るための喧嘩だった。当時の廣瀬は、そう感じた。

正義って何だろう?

ルールって何だろう?

僕らは、何を大切にしなくちゃいけないんだろう?

僕は、何を守りたいんだろう?

「Oさんは、僕が初めて出会った、僕が真摯に向き合えた大人だったのかもしれない」

Oさんの価値観は、どんどん廣瀬の人生を面白くしていった。
「商売」や「料理」のあれこれの基本は、Oさんから教わった。

稚内 ノシャップ岬にて 廣瀬がある決断をした場所

旅をするライダーたちは、多くが貧乏旅だ。泊まっている稚内のライダーハウスで「金がない」となると、Oさんは、水産加工場のアルバイトを紹介してくれ、皆で一緒に働いた。

秋は、鮭のシーズンである。
今でも忘れられない。
廣瀬は「過酷すぎる肉体労働」をこの時、初めて体験した。

獲れたてヌルヌルの生シャケの「沼」を掻き分ける、過酷な季節労働だった。毎日、朝早くから、水揚げされたシャケを満載した3tトラックが加工場に何台も到着し、荷台を返してシャケを落としていく。待ち受けている廣瀬たちは、膝までシャケに埋まる。

1尾ずつ頭をバチン!と切る機械に通す。腹を切ると溢れるように出てくるイクラ、白子を、地元のおばちゃんたちがテキパキと仕分けしていく。

腹を割って、首を落としても、シャケはまだ3キロから5キロもある。

廣瀬たちは、頭のないシャケの身をアルミの箱に10キロの重さになるよう詰め込んだ。さらに、その箱をジェンガのように積み上げて、タワーにしていく。タワーが完成すると、フォークリフトで、急速冷凍庫に運んでいく。

生のシャケタワーを冷凍庫に入れる作業が終わると、今度は、冷凍できているシャケタワーを冷凍庫から出して、タワーからアルミの箱を1つずつ下ろした。冷たくて重いアルミの箱を、水槽の水にくぐらせて箱から外すと、シャケブロックの完成。今度は、ブロックを、またジェンガのように積み上げて箱無しの冷凍シャケ1tタワーが出来上がる。

重くて冷たいアルミ箱を持っていると、ビニール手袋をしていても手の感覚が無くなるし、筋肉も限界になる。毎日両腕がパンパンになって、肩まで挙げられないほどだった。

日給6,000円。朝から夕方まで、シャケの沼の中で、ひたすら捌いて、運んで、積んで、冷凍して、また積んで、という繰り返しだ。

信頼されて、加工場の職員から「お前も1本ぐらい持って帰れ」と極上のシャケを分けてもらえるようになった。Oさんはシャケを持ち帰ると、ライダーハウスのオーナーに借りた大きい鉄板を出してきて「ちゃんちゃん焼き」の準備をする。そして、泊まっているライダーたちに声をかけるのだ。

「晩ごはんに、ちゃんちゃん焼き食べたい人いるか!?ひとり500円!」

すかさず腹ペコのライダーたちが10~20人、手を上げる。
廣瀬もOさんの料理を手伝った。集まった料理代は、Oさんや廣瀬たちで分けた。シャケ工場での1日6,000円の日当プラス、晩ごはんでのもう一踏ん張りで数千円増えた。

実は、廣瀬は最初、Oさんのやり方に戸惑った。

「ただでもらった食材。しかも、お店ではなく、自分たちの料理。そんなので、お金をもらっていいの?」

ところが、ライダーたちは、皆笑顔で、Oさんのちゃんちゃん焼きを頬張っている。それを見て「”商売”、”マネタイズ”ってこう言うことか」と気づいたという。

 

「僕らは、宿のライダーたちと違う2つの有利な立場があった。
1つ目は、いいシャケを食べきれないほど無料で仕入れられるという状況。
2つ目は、ライダーハウスに長く泊まっているから、オーナーから道具を貸してもらえて、料理ができる状況にあったということ」。

Oさんは「立場」をうまく、マネタイズする知恵を持っていた。廣瀬は、Oさんの横で商売のノウハウを身につけていく。実家の兵庫に戻った1993年の冬、Oさんと一緒に生きたままのタラバガニを全国に届けるネット通販事業を起こした。

当時の稚内港は、蟹を売りたいロシア人が、タラバガニを満載した船で交易にくる。だから、蟹は原価で手に入った。ロシアでは蟹を食べないからだ。代わりに、ロシア人は日本の中古車を、船から溢れんばかりに積みこんで、自国に戻っていく。

今でも産直直送の蟹はボイルが当たり前、その時代に「生きたまま届く蟹」「家で捌く」という体験型コンテンツとしてオンラインで販売した。

「世界初のオンライン産直通販だったと思う」と、廣瀬。

予想以上に、大当たりした。顧客からは「家族でわいわい言いながら、蟹を捌いて、楽しい時間になりました」という声が届く。

「やりたいことがあった時、
ぶつかった壁が、例えタブーでも
やれる方法をとにかく考えて超えていく。

 すると、違う世界が見えてくる」

Oさんとの日々で、気付かぬうちに廣瀬の中に流れるルサンチマンと、Oさんの方程式のパズルのピースがピッタリとハマっていた。

30年後の今、水源を守りたいという思いに端を発し、結果的に廣瀬は木工の世界の「1,000年のタブー」に挑戦し続けている。神山しずくプロジェクトは、そのものがタブーだらけだ。

「工芸に向いていないと言われている杉を、工芸品に使う」

「木目に沿って加工することが常識の木製品を、年輪が横になるように取る」

「木のコップを売るのが目的ではなく、木のコップで水資源・森林に興味を持ってもらうのが目的」

「マーケットのないところに、マーケットを創る」

工芸、林業、商業の様々なタブーに立ち向かって10年。今や、神山しずくプロジェクトは、タブーを「正義」にひっくり返した。森林保護や工芸の先駆的な活動として、国内外から評価されている。
2021年には農林水産省×内閣官房主催「ディスカバー農山漁村(むら)の宝」の準グランプリ受賞。シャツにジーンズの姿が定番の廣瀬は、授賞式にもこの姿を変えなかった。受付で官僚に上から下まで洋服を舐めるように見られて、受賞者扱いされず。「受賞者です」と言った途端に態度が変わった。省内にいた農水官僚の知り合いが「廣瀬さん!」と、挨拶にくる様子を受付の官僚は目を丸くして見ていた。

廣瀬のこうした姿勢の源流は、やはり30年前の稚内でのOさんとの出会いだった。それは今やしっかりと廣瀬の中に根を張っている。

廣瀬のタブーをタブー視しない視線は、節度や理のない、乱暴なやり方ではない。誠実でかつ戦略的だ。だからこそ、常識のオセロをひっくり返す力があるのだろう。

中国四国農水局からの同賞への推薦を受け入れたのは、SHIZQというタブーを、さらに林業の本丸・農林水産省へ訴えかけるための戦略でもあった。

 

今回の稚内滞在で、廣瀬はOさんに「僕、(北海道でいろんな釣りをしているのに)いまだにシャケは釣ったことないんだよね」と、ぽろっと話した。釣り好きのOさんは「じゃ、明日行こうぜ」と即答。

 

稚内の水平線と樺太

シャケ釣りに行く道中、車中から撮った1枚。水平線の向こうに樺太が見える

翌朝、稚内のシャケ釣りスポットに連れていってくれた。その堤防に並んでいたのは、3mおきぐらいに約100人の釣り人が糸を垂らしていた。廣瀬は、Oさんが用意してくれた定石の仕掛けを半ば無視した。長年のブラックバス釣りで得た感覚を信じて、自分だけの仕掛けに作り直した。準備をしていた30分ほどの間、周りは誰も釣れていなかった。廣瀬は、他の人たちよりも少し遠くに、仕掛けを落とした。廣瀬が投げたポイントを見て、周りの釣り人の中には「何も知らない素人が」という目で見る人もあった。

ところが。

廣瀬が竿を垂れると、針はすぐに動いた。廣瀬だけ入れ食いのように立て続けてに4本釣れた。シャケ釣りに慣れているOさんも思わず「俺にも釣らせろ!」。廣瀬の仕掛けで1本釣った。その後、さらに廣瀬はもう1本を釣り上げる。わずか1時間弱の間に廣瀬だけで、釣果は5本になった。「こんな大きなシャケが釣れたのは初めて見た」と、地元の釣り人が言う


周りの釣り人は、だんだん廣瀬のポイントに寄ってきた。

Oさんは、ケラケラ笑って、店に戻ると、自慢の包丁で大きな5本の鮭を軽々と捌いてくれた。

親分の包丁さばきは、体に似合わず丁寧で繊細だった。一枚一枚、切り口も美しい切り身にして冷凍してくれた。廣瀬は翌日、静岡の家族や親戚、神山でお世話になっている人、SHIZQのスタッフに向けて、丁寧に名前を書いて冷凍便を送った。旅先からの「絵葉書」の代わりだ。

稚内で釣ったシャケ

タブーかどうかは関係なく、自分の信じた道をゆけ。
周りは自然と着いてくる。

30年の間に、すっかり自然になったこの感覚で、廣瀬は生きている。

SHIZQは、その自然体の延長線上にあるプロジェクトでもある。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=J_hbe-SHQlI&w=560&h=315]

【代表廣瀬の特別連載 ①】SHIZQの源流をたどる <プロローグ:炎に魅せられた礼文>

ハーレーと北海道礼文島から利尻富士を望む

いつもSHIZQを応援してくれている皆さんへ

こんにちは!神山しずくプロジェクト代表の廣瀬と申します。

今年のGWは天候にも恵まれ、久しぶりに思う存分、休日を楽しんだ方も多かったんじゃないでしょうか。当たり前に休日を楽しめるこの日常を、これからも大切にしていきたいですね。

皆さんに支えられ、お蔭さまでこの7月に10周年を迎える「神山しずくプロジェクト」ですが、僕はなぜ、神山というこの場所で、こんなプロジェクトを始めちゃったんでしょうか(笑)

 


2022年、50歳を迎える節目の年
ご縁があって、憧れのハーレーで北海道へツーリングに行くことにしました。ひとり旅を終え、この貴重な体験を「日記」として、皆さんと共有できないかと考えていました

ところが、どうにも記事を書く時間が取れず、すっかり困ってしまった僕は、お友達のライターさんに相談することにしました。「僕の旅の話を聞いて、日記として起こしてくれないか?」と言う、めちゃくちゃな依頼を快く引き受けてくれたのがライターの阿利明美さんでした。

そうして始まった身勝手な取材、僕は旅の思い出を赤裸々に語ります。すると話を聞いた彼女の中に次々に生まれる疑問や興味。それに一生懸命答えているうちに、取材時間はとうとう12時間を超える結果となりました。この経験を経て、僕自身とっても大切なことに気づくことになりました

 

30年前、軽い気持ちで友達と行った北海道ツーリング。そこで出会った人たち、初めて触れた地方の豊かさ。デザイナーとして独立し、都会で10年、そして神山へ移住。どうやらこれまで僕が経験してきたこと全ては、SHIZQに続く道だったのかも知れません


題して【代表廣瀬の特別連載】SHIZQの源流をたどる(全4回)の連載記事としてお送りすることにします。


皆さん、ぜひご覧頂き、感想や質問、メッセージなどお寄せください。

第1話<プロローグ:炎に魅せられた礼文>

では、どうぞ!!

ハーレーと北海道礼文島から利尻富士を望む

礼文島香深港から利尻富士を望む

その日、廣瀬は日本最北の離島、礼文島の香深港に立っていた。 若い頃から憧れてきたハーレー・ダビッドソンを旅の共にできた50歳の今、どうしても、北海道を旅したかった。北海道に来たからには、礼文島に再び降り立ち、ハーレーで走りたいという熱情が湧いてくる。

旅の友は、ハーレー・ダビッドソン スポーツスターXLH883。バイクに乗り始めて30年目に縁あって、廣瀬の元にやってきた。香深港行きのフェリーにバイクを乗せるのも、30年ぶり。廣瀬は当時の愛車、ホンダスティード400よりも重厚感がある車体にまたがり、フェリーの船底に乗り入れた。

日本の最北限である礼文島は、徳島から直線距離で1,500キロ以上離れている。稚内港から、さらにフェリーで2時間。長い人生とは言えど、日本の最果てのさらに最果てまでくる機会は、そうそうない。

当時、廣瀬は20歳だった。

当時の愛車スティードとともに、20歳から数年間、お金を貯めては、北海道に戻って旅に明け暮れた。ライダーズハウスを出る朝、The Smashing Panpkinsのアルバム「Siamese Dream」(1993年)をCDプレーヤーにセットする。1曲目「天使のロック」のイントロのドラミングで、アクセルを開ける。バイクのエンジン音と、ドラムのリズムが重なる。見渡す限りの原野に突き抜ける一直線の国道。ビリー・コーガンの色気のあるダミ声がシャウトする。そこでまた一段、スピードを上げ、風を切って走った。旅の先々で知り合う仲間達とは「金ないねー」と言いながら、笑いあい、北海道の旅を満喫していた。


廣瀬は、兵庫県尼崎市のニュータウンで育った、いわゆる団塊ジュニア世代である。1970 – 80年代、高度成長期からバブルにかけての少年時代。人口の都市部一極集中を避ける国策で各地にニュータウンが作られ、廣瀬のいた市営団地は、30号棟まであった。

同級生はあれほど多くいたのに、彼らが選んだ進路は、高卒で工場勤務か、大学進学のほとんど二択。日本が「土の匂いのする暮らし」から離れて、「消費社会」を突っ走り始めた時代の、真っ只中で生きてきた。

廣瀬は、「消費社会」というパズルの盤面を埋めていくピースの形に、自分が当てはまらない、もしくは、当てはまれないことに薄々気づき始めていた。人間としての本質を伸ばすのではなく、既製品のパズルの「形」に合わせて育てられるような教育の中で、形にはまることなく、かと言って形を壊すこともなく、中学・高校時代を過ごした。

中学では、いじめられっ子、いじめっ子、両方を経験した。中高とやっていたテニス部では、先輩と反りが合わず、やめた後はパンクバンドのメンバーになった。不良の友達も、真面目な友達も多かった。


一方で、真面目にも、不良にも振り切らない。

「どっちにも合わせられるけれど、
どっちにも寄らずに、自分があんまりないという状況だった」。

仕事には思いがあった。中学時代から「マンションの一室で、完全予約制、お客様のために、自分1人が最初から最後まで、丁寧に施術する美容室」を構想した。美容師ブームが来る約10年前のこと。サロンで一対一というサービスのあり方など、誰も想像もしなかった時代だった。

イメージを実現するために美容師業界に入ったが、実際の現場は思い描いていたものとほど遠く、1年ほどで辞めてしまった。 廣瀬のピースは、まだ社会にはまらない。

 

北海道へ向かうきっかけは、高校時代の悪友と「バイクで旅をしようぜ」という話から。2週間の予定だったが、これを機に、廣瀬は旅へと突き動かされることになる。

旅で出会った奴らは、強烈だった。交通事故の保険金で旅を続ける人、新装開店のパチンコ屋を巡って旅を続ける人。廣瀬曰く「ろくでもない奴らだよね」。社会のパズルにどうにも合わない、愛すべき仲間たちと走り抜ける北海道の日々は、最高だった。

「みんなと違っても良い」「社会のパズルにハマらないピースであっていい」という暗黙の価値観は、廣瀬を自由にした。


特に「礼文島」で過ごした強烈な
1週間は、いまだに全身が覚えている。ライダーハウスで知り合った気心の知れた仲間も一緒だった。スティードもフェリーに乗せて、この最果ての地に来た。

小さなキャンプ場は、夏休みだというのに貸切状態だった。キャンプ慣れした仲間は、焚き火もお手のもの。この時は、大きな丸太を囲むように薪を焚べた。いくら薪を焚べても中央の丸太には、なかなか火がつかない。それでも、毎晩、焚き火を囲んで、皆で酒を飲んだ。

最果ての潮風を切って、信号機もない道を走る。焚き火を囲んで酒を飲み、泣いて、怒って、大笑いする。天の川の下、泥のように眠る。また朝日の眩しさで起きる。時間はたっぷりあった。


日焼けした。
二日酔いになった。
絶海の孤島で、生きる欲望に自由になれた。

ある夜。

雨のような流星群が、廣瀬たちの上に降り注いだ。
周りは灯りひとつないから、小さなものまで、よく見えた。

いくつもの流れ星を数えるうち、突如、青白い炎の玉がメラメラと、まるで音まで聞こえそうな勢いで落ちてきた。

その炎の玉は、仰向けになった廣瀬の頭の先から、足先まで、視界いっぱいを一直線を描いて飛んでいった。流れ星というよりも、地上に墜ちる隕石そのものと、表現したほうが相応しい。

一瞬ののち、仲間から口々に「ウワーッ!」と大声が出た。廣瀬の幻影ではなかった。

「煙が飛行機雲みたいになってたんでしょうね。一直線の残像が目の中に残ってますもんね。30年経ってもまだ覚えている」。

過去最大級のペルセウス座流星群だった。記録によると、1時間に100個以上も観測されたという。 同年の12月には、ペルセウス座流星群の母彗星、スイフト・タットル彗星が地球に133年ぶりに大接近。あの日は、130年に1度あるかないかの夜空だった。

「縄文人って、毎日あんな暮らしだったのかもしれない」。

廣瀬は当時を振り返りながら、こう漏らした。

 

1990年代半ば礼文島 桃岩展望台にて

「赤パンのジェロ」と呼ばれていた当時の廣瀬。礼文島 桃岩展望台にて

日焼けもして、髭もかなり伸びた礼文島滞在の終盤。とうとう、焚き火の真ん中の大きな丸太から、炎が上がり始めた。

孤島の太古の闇を照らす、巨大な丸太。丸太の小口部分が、年輪に沿って赤いラインを描くように、ふわっと光りはじめる。ラインは長くなったり、短くなったりしながら、時折、年輪をぐるっと一周する。火花の年輪を一瞬たりとも見逃すまいと、廣瀬の目は焚き火に集中した。その光の像は30年経った今も、廣瀬の瞼の裏にありありと残っている。

印象的な場所だった。けれど廣瀬は「また30年前と同じ場所に行くのはなんでだろう?」と首を傾げる。

 

何度も、何度も考え、しばらくのちに出てきた答えが、こうだった。

「何もないのに繰り返しいくのは、多分、あの奇跡みたいな夜を忘れないために、というのはあるかもしれない」。

「当時の教育システムの中、こうあるべきという価値観を刷り込まれて育ってきたけれど、あの頃から、何か腑に落ちない社会の常識に対して、僕の中で、ルサンチマンみたいなのがあった。それが、北海道の旅で生まれ変わった」。

枠の中から出られないでいる自分から、一気に「自由」に振り切り、そのままの自分で大丈夫。と、自分のピースを信じられるようになったのが、北海道の旅だったのではないか。

 

北海道礼文島桃岩展望台

2022年 桃岩展望台


2022
10月。

快晴の空のもと、奇跡の夜を過ごした、あの礼文島を走り抜けた。30年ぶりに北海道を旅したことで、自分自身のことが、解りかけてきた。

若き日、人生を変えたあの経験の数々、そこにSHIZQに至る「源流」が、確かにあった。

これは、50歳の節目の年に、それらを紐解く、4回の連載である。

 

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=yFNYO-GC3-4&w=560&h=315]

 

5/14(日)「神山の暮らしと仕事」無料オンラインイベントに廣瀬が登壇

神山しずくプロジェクト代表廣瀬圭治とソノリテ代表江﨑礼子

神山に関心がある方、移住や田舎暮らしに興味のある方、SHIZQやサテライトオフィスについて知りたい方など、どなたでもご参加いただけるイベントが開催されます。主催は株式会社ソノリテ。非営利組織に特化したオンライン募金システムの開発提供やNPO向け業務支援を行っている東京本社の企業さんです。

しずくプロジェクトを運営するデザイン事務所キネトスコープ社がサテライトオフィスを開設したのが2012年の10月。その5ヶ月前にソノリテも神山オフィスを開所、歩いて2分のご近所オフィスのご縁で仲良くさせていただいています。

代表の江﨑礼子さんは、しずく代表の廣瀬を「弟」と呼ぶ気さくな間柄。メディアには映らないリアルな神山の話が聞けるかもしれません。じつは結構貴重な機会だと感じていますので、ご興味のある方はぜひお申し込みを!

神山しずくプロジェクト代表廣瀬圭治とソノリテ代表江﨑礼子

ソノリテ神山オフィス11周年パーティで廣瀬が乾杯の音頭を取らせていただきました(撮影 河野公雄)

オープンソノリテ会
「神山の暮らしと仕事」~神山のこれまでとこれからを語り合おう~

■日時:5月14日(日)18時〜19時45分
※Zoomによるオンライン開催。ZoomURLは前日までに参加者へお知らせ。
アーカイブ配信あり。申込者に後日、視聴URLが届きますのでお好きなタイミングでご覧いただけます。
■参加費:無料
■対象:どなたでもご参加できます
■当日の主な内容
・「神山の暮らし、神山の仕事」廣瀬さん
・廣瀬さんと江崎のクロストーク
・廣瀬さんへのご質問や参加者からのご感想タイム
■お申込み
こちらのフォームからお願いいたします。
■さらに詳細はHPにてご確認ください。

窪塚洋介さん「今をよくするTV」【神山しずくプロジェクト】前編が公開

窪塚洋介の今をよくするTVサムネイル神山しずくプロジェクト編

前編はラボでの撮影。
杉でのものづくりや年輪のデザインがタブーから生まれている話、それが意味するものを丁寧にお伝えいただいています。

窪塚さん自身がSHIZQ製品をご愛用いただき、ギフトにもしていただいた上で、こうして表現してくださることがとてもありがたい
です。

窪塚洋介がしずくラボで話している

しずくの活動に対する「想いが研ぎ澄まされている」という言葉は、とても嬉しく身の引き締まる思い。
すでに1万回再生されています…!ぜひみなさんもご覧くださいね。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=3bh5tsSj4pQ?si=bQ1zqjVd0UBU4kXG&w=560&h=315]

 

ちなみに後編は、会員登録後にご覧いただけるようです。
後半はさらに盛り上がり、普段の取材などではなかなかお伝えできない深い部分の話まで引き出していただきました。「さすが窪塚さん…!」と聞いている私たちも唸ってしまうような濃厚で貴重な体験となり、とても励まされる思いでした。

ぜひ一人でも多くの方にご覧いただけたらと思います。

窪塚洋介今をよくするTV


■番組コンセプト

窪塚洋介こと窪塚腸介が、地元の盟友No.8とKOVA FILMと供に、
「コドナの社会見学」と称し、体内環境や地球環境をより良くする活動を行うスペシャリスト達のもとを、自分たちの興味のままに訪ね、見学、取材、対談などをすることで、視聴者の皆んなと一緒に学び、考え感じ、少しでも豊かな世界にしようという願いを込めてお送りするYouTube番組です。

今の向こうに未来が在るなら、
この手でよりよい今を創る。(HPより抜粋)

2023年ゴールデンウィーク営業と一ヶ月休業のお知らせ

神山の谷に流れる沢水

こんにちは。神山しずくプロジェクトの渡邉です。3月に「ホーホチェチョ…」(笑)と鳴き始めたウグイスが、今やすっかり美しい音色を聴かせてくれる春真っ盛り。新生活を迎えた方々も少しずつ慣れてきた頃でしょうか。

 

さて今日は2つのお知らせです。

ゴールデンウィーク期間について

一ヶ月休業について

徳島県神山町の農村野舞台での人形浄瑠璃

ゴールデンウィーク期間について

【SHIZQ STORE】
ゴールデンウィーク期間も通常通り営業いたします
営業時間:10〜12時、13〜16時
定休日:5月1日(月)、2日(火)

【オンラインストア】
通常通りご注文受付および発送いたします。


1ヶ月休業について

【SHIZQ STORE】
5月15日(月)〜6月13日(火)の間、休業させていただきます。
休業前最終営業日:5月14日(日)
休業明け営業日:6月14日(水)

【オンラインストア】
5月12日(金)までのご注文分について、通常通り発送
5月13日(土)以降のご注文分については、6月14日(水)より順次発送

 神山の谷に流れる沢水

今年も1ヶ月休業をいただきます

5/15(月)〜6/13(火)の間、スタッフ研修も兼ねてSHIZQ STOREオンラインストアおよびその他業務を休止させていただきます。お問合わせ等につきましても、6/14(水)以降のご回答とさせていただきます。

2018年から実験的に行っている休業期間。みなさんのご理解により今年も続けることができています。本当にありがとうございます。

都会から田舎へ、働き方・生き方を変えてきた私たち。
あたりまえの日常になっていく毎日を見直し、今ある時間を大切にする機会として設けています。たくさんの方のご理解とご協力に感謝し、これからを作る大事な期間と考え、今年も実施させていただきます。

ご不便をおかけいたしますが、なにとぞご理解のほどお願い申し上げます。

 

 

 

神山の自然が織りなすしずくストアへようこそ

しずくストアに飾った花

こんにちは。しずくスタッフの優子です。

普段はしずくストアで接客や販売に伴う業務、そして今日お話する生花を担当しています。

神山でも草木が茂り、花々が次から次へと咲き誇る春がやってきました。冬の間、大地に土に木々に蓄えられたエネルギーが一斉に溢れ出す季節到来です。

しずくストアに飾った桜の生花

しずくストアに訪れたお客様はお店に入った瞬間に、店内のデザイン、雰囲気と杉の香り、SHIZQの製品達が放つ美しく清浄な空気感に溜息をもらし、心を開いてくださいます。
都会からいらっしゃる方々は特に感動され、お褒めの言葉を仰ってくださいます。

今日は、植物達とともにストアでおもてなしすることについて、お伝えいたします。

しずくストアでお花を活ける

昨年ストアオープン2年目の課題として、植物が生きる空間づくりに力を入れて取り組むこととなりました。それまでも、機会があれば草花をストアに持ち込んでいたこともあり、私に一任いただくことに。

神山に移住して2年、ちょうど神山の自然や道端の草花達ともっと仲良くなりたいと思っていたタイミングでもありました。

しずくストア前に群生するススキ

神山にはお花屋さんがない為、野山の恵みを必要なだけいただきます。

お役目をもって日々を過ごすようになると、いつもと同じ道がよりはっきりと鮮明に見えてくるようになりました。

しずくストアの敷地内、自転車での通勤路。夕方、ワンコと歩きまわる散歩道など、今まで通っていた何気ない場所で小さくかわいい植物たちと今まで以上に、目が合うようになってきました。

春の山菜からハコベや蓼、夏の元気な葉っぱ類から蔓科の植物、秋のススキや落ち葉など、、「ストアに連れていってもよいかしら?」と対話するのも楽しいものです。

冬はお花がないと心配されますが、庭の山茶花やら枯れた木に絡むツルウメモドキ、サンシュユの実、マンリョウ、南天など赤い実達を生かしてアレンジします。冬いちごは、葉っぱも実もとても可愛いのです。

ご近所の方からお花をいただく様子

そんな風に過ごしていると、草花以外ともご縁がつながっていきました。

植物に詳しい方と知り合ったり、生花の世界観を教えていただいたり、野の花の生け方のヒントになる本を貸してもらえたり。

お庭に咲く珍しい花や生産農家さんの育てた蘭や黄金ヒバ、啓翁桜(けいおうざくら)などをお裾分けしていただくこともしばしば。

根を張り、そこで生きている恵みを、その場で一部だけいただく。

お花屋さんで買うお花にはない土地に根づいた豊かさを体感しています。

神山工房の陶器に桜を活ける

この冬は神山工房さんの陶器をストアにお迎えいたしました。

神山工房さんも機械や道具を出来るだけ使わず、指先で土を感じながら作られているそうで考え方や製法もSHIZQと通じるところがあると感じています。

澄みきった山の空気のようなご主人が創られた花器は店内にもなじみ、活けた草花達も生き生きして嬉しそうです。

SHIZQ製品がそうであるように店内にあるものたちも、どこからやってきたのか、どんな物語をもっているのかを知ると立体感がぐんと増します。

しずくストアは神山杉のドアや床、吊り天井に、スタッフみんなで塗った漆喰の壁や商品棚、店内中央にはシンボルツリー。杉の年輪を生かした美しいデザインの器達も自然の一部。それらもアロマ製品も、そして神山中から集まってきた植物達、みんなが呼吸をしているため、訪れてくださったお客様も深い呼吸とともにリラックス出来る環境が生まれているのだと感じています。

しずくストアの商品と花

広々とした窓からは太陽の光が降り注ぎ、山々や川、田んぼや畑の風景を眼下に店内に居ながらにして神山の自然を存分に味わうことも出来ます。

店内に優しい空気が流れているのも神山のささやかな自然とそこに暮らす人達の息遣いを感じられるからのようにも思っています。

改めて、このお仕事を通して、神山の自然がもたらしてくれる空気感、風の香り、大地の恵みをストアにお越しいただくお客様に存分に味わっていただけたらと心から思います。

しずくストアに飾った花

しずくストアという空間で一緒にお客様をお出迎えしてくれる草花達との出会いから、花器に生け、お店にお越しいただいたお客様が神山とSHIZQの世界観を体感し、喜んでくださる場面に立ち会えるのが、私の喜びでもあり、やりがいにもなっています。

そんな神山の花鳥風月を味わえるしずくストアで在れるよう、

今日も私は神山の野を自分の足で身体で感じたままに過ごしています。     

草花達や植物がもたらす光と風と大地のエネルギーを感じにぜひご来店ください。

草花の精たちとお待ちしております。

 

『FRaU S-TRIP 4月号 もっともっと、サステナブルな「徳島」へ』

雑誌フラウS-トリップ2023年4月号
現在、発売中のFRaUは昨年に引き続いて徳島特集号。
『FRaU S-TRIP 4月号 もっともっと、サステナブルな「徳島」へ』
雑誌フラウS-トリップ2023年4月号
徳島市出身、エシカルファッションプランナーの鎌田 安里紗さんにレコメンドをいただき
「わたしのとくしまじまん」にて、SHIZQ 鶴カップ&ロックグラスをご紹介いただきました。
雑誌フラウS-トリップ2023年4月号に掲載徳島の逸品に選ばれたしずくのカップ
去年も大好評で、「FRaUを読んで徳島に来ました!」という方が続出した一冊。ぜひご覧くださいね。
白石麻衣さんと大塚国際美術館のスクロヴェーニ礼拝堂がとっても素敵な表紙です♪
雑誌フラウS-トリップ2023年4月号に掲載徳島の逸品