【代表廣瀬の特別連載③】SHIZQの源流をたどる <木目の美と静寂を感じる阿寒>

マリモと温泉、アイヌコタンで有名な阿寒湖は、活火山阿寒岳の影響で、硫黄の匂いが漂う。廣瀬にとって、思い入れのある場所だ。北海道に来ると、必ず阿寒に帰るという。故郷は兵庫だが、阿寒にも「帰る」という表現を使う。

廣瀬はその日、阿寒湖畔で、風を感じるような木の彫刻作品群の前に立っていた。

アイヌの村の守り神、「コタンコロカムイ」と呼ばれる「島梟(シマフクロウ)」の彫刻がいくつも佇んでいる。

こちらを睨み、
豊かに伸びる羽、
膨らむ胸の羽毛が、威厳ある老王のような神の姿を思わせる。

よく見ると、
瞳孔が、木目になっている。木目がそのまま、こちらを睨んでいる。

作品によって、
木目に沿ったり、
木目に反したりと
ノミで繊細に入れられた傷が、毛の息遣いを想像させる。

曲がり、伸びていく木の流れが、そのまま像の動きになっている。

だから、
木目の動き、木の流れの線が
周りの空気の流れにまで伸びているように錯覚し、
周辺の空間にまで影響を与えている。

まるで、木の中にいるカムイ(神)を掘り出したかのように見える。

木の中にいるカムイ
瀧口正満さん作 森の王様

彫刻家、瀧口政満さん(1941年~2017年)は、その阿寒湖畔のアイヌコタンで50年以上、木彫りを続けた北海道を代表する彫刻家だ。

自然に争わず、ねじれのある古木や埋もれ木、流木を素材として、ねじれやこぶ、年輪の姿をそのまま生かした作品を残した。実際、瀧口さんは「木の中に彫り出す像が見える」と周辺に語っていたという。

廣瀬がいたのは、ホテル「あかん悠久の里 鶴雅」の「ギャラリーニタイ」だ。ニタイは、アイヌ語で「森」を表す。このホテルは、生前の瀧口さんの作家活動を支え、今も作品を数多く収蔵している。廣瀬は、ずっとギャラリーに滞在し、じっくり瀧口氏の作品一体一体を感じていった。

瀧口正満さん作 想い
瀧口正満さん作 想い

瀧口さんは、幼い頃から耳が聞こえなかった。「聞こえない分、頬に触れる風、体を伝わる風で世界を感じていたんじゃないかな。だから、風を感じるのかもしれない」と廣瀬は考える。

木彫りの土産物屋を営みながら、作品を作っていた瀧口さんの店は、ホテルから歩いてすぐのアイヌコタンにある。アイヌ文化を受け継ぐ人たちが暮らす阿寒の中でも、アイヌの血筋の人が一番多い通り、その中腹にある店が、瀧口さんの「イチンゲの店」だった。

久しぶりに入ると、瀧口さんの息子、健吾さんが気づいて迎えてくれた。30年ぶりに会うというのに、廣瀬のことを覚えていた。30年前、1ヶ月ほど滞在した長髪の「赤パンのジェロ」は印象的だったという。

そう。30年前、若き日の廣瀬はバイク旅の途中、瀧口家で住み込みのアルバイトをしていた。たまたま入った店で、店番をしていたバイク旅の若者と仲良くなり、その縁で秋の「まりも祭り」期間中、店番を引き継ぐことになった。

作家さんと話したいというお客さんが来ると、木彫りに集中している瀧口さんを奥まで呼びに行き、耳の聞こえない瀧口さんとお客さんの間を取り持つ。観光客への接客の他にも、他のお店で同じように働く旅暮らしの若者と仲良くなったり、犬の散歩やお使いに出たりもした。

そして、少しだけ木彫りをやらせてもらうこともあった。

旅に出て初めて家族や土地の温かさをゆったりと感じた。のんびりした暮らしだったが、廣瀬の五感は、大いに刺激を受けていた。

阿寒湖の湖岸に立つと、廣瀬の足元とほとんど同じ高さから、波もなく静かな湖面が広がっていく。
周辺には、うっすらと硫黄の匂いが漂っている。オンネトーの五色の湖の美しさは格別だ。

瀧口家で出される、アイヌの食材、ギョウジャニンニクのお漬物、何かとご飯に載せて食べるスジコ。瀧口さんと妻の百合子さん、当時、中学生だった、健吾さんとの家族の温かな会話。

瀧口さんはお酒を飲んで、気分が良くなると、手話の動きも早くなった

「今日きたお客さんはどうだった」
「次、休み取れる時に、釣りに行こう」。

当初、廣瀬にとっての瀧口さんは芸術家という印象ではなく「耳の聞こえない、堅物の普通のおっちゃん」というイメージだったが、店番をしている中で、所狭しと置いてある瀧口さんの作品に、次第に魅せられていった。

「樹の人 瀧口政満作品集」(2019年、北海道新聞社)によると、瀧口さんは満州生まれで3歳ごろに耳が聞こえなくなり、戦後、4歳で山梨の父の実家へ引き揚げた。5歳で官立東京聾唖学校(元・筑波大学附属聴覚特別支援学級)に入り、以来、20歳の卒業まで寄宿舎生活を送ったという。この時に、木工やデッサンを習い、卒業後は工芸研究所で働いていた。旅に出た際にアイヌコタンでの木彫りに魅了される。そこでアイヌの血を引く百合子さんと出会い、東京を出奔した。他の店に間借りしながら修行し、自分たちの店を持った。店の名のイチンゲは、アイヌ語で「亀」。瀧口さんが自身を表してつけた名だ。

当時の廣瀬は、瀧口さんの背景は知らない。
が、今も決して忘れられない一晩がある。弟子屈町の山の中あった、瀧口さんのアトリエに同行した日のことだ。阿寒湖から約40キロ離れた場所に、軽トラに乗って2人で向かった先は、くねくねの山道。

瀧口さんは、とても楽しそうだった。言葉では語らないけれど、「俺の城が、どんな楽しいところか、お前にも見せてやる」。そんな印象だった。

着いた場所は、アトリエというよりも、隠れ家だった。

農家の納屋を改装した場所だった。雑然と道具や彫刻の材料になる木材が置いてあり、もので溢れていた。

製作途中の彫刻作品を前に、手の仕草で「このラインがいいんだ」と見せた。
工芸に携わる30年後の今なら、何がどう美しいのか、どこに魅力があるのか、言語化できる。しかし、当時はよく分からないなりに、廣瀬は心の中で「美しいのはもちろん、知ってるよ、綺麗で格好いいと思ってるよ」と答えていた。

瀧口さんの彫刻は、定石に捉われない。

整えられた木よりも、
泥の中に埋もれた木、海や川の流木などを好んで使う。
黒ずみの中に、曲がった形の中に息吹を見つける。
普通は、フォルムから入る設計図も作品の「目」から描き始める。

目をここに持って来ると、羽がここに伸びる。
像の姿が、彫る前から見えている。

薄暗いアトリエで、瀧口さんがひとたび作品作りに集中しはじめると、声をかけられなくなった。近くで見ると鬼気迫るものがあった。

彼と作品の間には、他のものは何もない。
作品に向き合うその姿勢に、本物の作家の世界を見て感動した。

空、林、風、雪。
聞こえるのは、風の音。
周りには何もない隠れ家で、廣瀬は静寂を感じた。
瀧口さんの世界は、その廣瀬よりも、さらなる静謐の真ん中にいる。

仕事が一息つくと、2人で露天風呂に入って夜空を見上げた。
瀧口さんは、廃材を集めて、アトリエのすぐ隣に露天風呂を作っていた。
ポンプで汲み上げた源泉を入れた、瀧口さんだけの「温泉」だ。

「このロケーションで貸し切り露天風呂だぞ!」と、
かなり自慢げに見えた。

湯に浸かりながら、空を見上げると満点の星空。
天の川を中心に集まる星々の間を、何度も流れ星が流れる。

「うわ、また飛んだ、また!」。

廣瀬は最初、湯に浸かりながらいちいち驚いていたが、そのうち流れすぎて風景の一部になった。

動物の目がピッぴっと光っているのが見えた。
キタキツネだろうか。
露天風呂の向こうの森から、廣瀬たち2人を観察して、動いている。

瀧口さんは、「これがいいんだ」と言わんばかりの表情で、黙っている。

瀧口さんが作品作りに没頭するのは、アイヌコタンに来る観光客の少ない厳冬の間。

雪が積もり、人も来ない山の中で木に向き合う。
この露天風呂に浸かり、星と動物と同じ目線で生きる。

これという会話は、ない。
言葉はなくとも、30年経っても大事な記憶だ。

30年ぶりに再開した瀧口健吾さんと一緒に
30年ぶりに再開した瀧口健吾さんと一緒に

30年後の廣瀬はイチンゲの店で、健吾さんと互いに近況報告をした。健吾さんは高校でオーストラリアに留学。バードカービングに出会い、木彫りに目覚めたという。帰国後、いったんは父の店で働いていたが酪農の仕事に就いた。ただ木彫りも続けていたそうで、お店を継いで木彫り作家として活躍。今では地元のアイヌの文化を後世に残す活動もしている。中学生だった彼は結婚もしていた。妻、綾子さんは阿寒の動物やアイヌの女性をモチーフに絵を描く画家。アイヌ古式舞踊の踊り手でもあるという。

健吾さんとは、地元の木のこと、文化の話しで盛り上がった。神山しずくプロジェクトの活動にも共感してくれた。

健吾さんが今まさに彫っている最中だという作品を見せてもらった。「死に節」を生かした作品だった。
死に節は、枯れた枝がそのまま幹に残ったもの。節の強度が弱く、色も黒いため、木材としての価値は低い。健吾さんの作品は、逆に節をペンの引っかかり部分にして、死に節を逆に生かすデザインだった。健吾さんオリジナルのアイヌ文様をあしらっている。

お土産に買いたい、というと健吾さんも思い入れがある様子。
「いやぁ、これは安くしたくないんだけど…」

「言い値で買わせてください」

瀧口さんのシマフクロウの像が、2人を見下ろしていた。

アイヌ文様の入ったペンとペン置き
健吾さんが彫ったアイヌ文様の入ったペンとペン置き

健吾さんとの会話の後、ゆっくりとある考えが廣瀬を捉えていった。
「僕のデザインは、瀧口さんの影響を受けているかも知れない」。

繰り返すようだが、木目に逆らい年輪を横にとるSHIZQのデザインは工芸としてはタブーに等しい。しかも、材木としては価値が低いとされている、赤目と白目に分かれた部分をデザインの美しさとして使っている。

このデザインゆえに職人に断られ続けた。

工芸とは畑違いの廣瀬が、職人に引き下がらなかった原動力はなんだったか?
旅から帰った廣瀬は、数ヶ月考え続けて、ようやく「この木目のデザインが絶対的に美しいという信念を貫き通せたのは、瀧口さんの影響だ」と確信する。

これまで、SHIZQの木目のデザインは、「自分の中から自然に湧き上がってきた」ものだと思ってきた。神山町に住んでみて、山の状況を目の当たりにして、なんとかしたいと思い、このデザインを生み出した。そう思っていた。

しかし、なぜ、自分は、神山町の杉ばかりの風景を見て、神山しずくプロジェクトという形にしたのか。杉を生かしたプロダクトを作るために、なぜ木目に着目したのか?

この時、「僕の中の”美しい”の原型みたいなものが形成されたのは、30年前の阿寒での経験だ、ということがわかった」。

あの頃があったから、今がある。

50歳を機に訪れた北海道の旅は、全く意図せず、自らの源流に気づきをもたらしていった。