【代表廣瀬の特別連載②】SHIZQの源流をたどる <タブーと正義を教わった稚内>

稚内に着くと、廣瀬は必ずある店に足を運ぶ。30年前、礼文島であの1週間を一緒に過ごした仲間Oさんの経営する居酒屋だ。

Oさんの釣ったサクラマスの塩焼き、タラバガニのクリームコロッケ、利尻昆布を食べて育った極上馬糞ウニ!どれもが感動でふるえるほどの美味しさだ。
注文もしていないのに、稚内や北海道の幸が、どんどん出てくる。満腹を超えて、さらにこれ以上は食べられない状態にまで満たされる。それでも、どんどん出てくる。絶品料理で満たされた後は、遠慮なく、お店の座敷で宿泊させてもらう。それでも、Oさんは、廣瀬には料理のお代も宿代も一銭も要求しない。

いつ行っても、お金を受け取ってくれない。だから、今回は帰り際、お札をレジに捩じ込んできた。旅も青春も一緒に超えてきた、朋友同士の小さな攻防である。
30年前、ライダーハウスでたまたま出会った2人は、変わらず、ずっとこんな付き合いをしてきた。

Oさんのお店で出てくる料理はどれも絶品

「当時の僕は、10歳年上のお兄さんのやることが面白くて面白くて」。

当時の廣瀬から見ると、何でも知っていて、かっこいい大人だった。その上に自然体で、いつもおどけて見せる姿が、チャーミングとあってOさんの周りには、人が集まり、笑いが絶えない。温厚であったかい。「冗談?」と、笑い飛ばしてしまう夢みたいなアイディアをOさんは本気でやった。

バカなことを実行するときでも、守らなくていい暗黙のルールと、守るべき節度は、キッパリと伝わってきた。「ここまでは、人間としてやっていいけど、これ以上は人間としてダメ」という価値観だ。

次第にOさんと一緒に行動する機会は、どんどん増えていった。

衝撃的な夜があった。後にも先にも、Oさんが旅仲間に本気でキレて殴りかかったのは、この時以外、見たことがない。喧嘩の原因は覚えていない。ただ、Oさんが怒った相手は、廣瀬の目から見ても、守るべき節度を超えていた。廣瀬を含め、男3人がかりで全力で止めたが、Oさんは、力士のようなしっかりした体つき。まるで戦車のようだった。あっという間に、吹っ飛ばされた。それでも止めないと大事になると思った。

「あんなに、人を必死に止めたのは人生で初めてだった」

それは、Oさんの中の「正義」を守るための喧嘩だった。当時の廣瀬は、そう感じた。

正義って何だろう?

ルールって何だろう?

僕らは、何を大切にしなくちゃいけないんだろう?

僕は、何を守りたいんだろう?

「Oさんは、僕が初めて出会った、僕が真摯に向き合えた大人だったのかもしれない」

Oさんの価値観は、どんどん廣瀬の人生を面白くしていった。
「商売」や「料理」のあれこれの基本は、Oさんから教わった。

稚内 ノシャップ岬にて 廣瀬がある決断をした場所

旅をするライダーたちは、多くが貧乏旅だ。泊まっている稚内のライダーハウスで「金がない」となると、Oさんは、水産加工場のアルバイトを紹介してくれ、皆で一緒に働いた。

秋は、鮭のシーズンである。
今でも忘れられない。
廣瀬は「過酷すぎる肉体労働」をこの時、初めて体験した。

獲れたてヌルヌルの生シャケの「沼」を掻き分ける、過酷な季節労働だった。毎日、朝早くから、水揚げされたシャケを満載した3tトラックが加工場に何台も到着し、荷台を返してシャケを落としていく。待ち受けている廣瀬たちは、膝までシャケに埋まる。

1尾ずつ頭をバチン!と切る機械に通す。腹を切ると溢れるように出てくるイクラ、白子を、地元のおばちゃんたちがテキパキと仕分けしていく。

腹を割って、首を落としても、シャケはまだ3キロから5キロもある。

廣瀬たちは、頭のないシャケの身をアルミの箱に10キロの重さになるよう詰め込んだ。さらに、その箱をジェンガのように積み上げて、タワーにしていく。タワーが完成すると、フォークリフトで、急速冷凍庫に運んでいく。

生のシャケタワーを冷凍庫に入れる作業が終わると、今度は、冷凍できているシャケタワーを冷凍庫から出して、タワーからアルミの箱を1つずつ下ろした。冷たくて重いアルミの箱を、水槽の水にくぐらせて箱から外すと、シャケブロックの完成。今度は、ブロックを、またジェンガのように積み上げて箱無しの冷凍シャケ1tタワーが出来上がる。

重くて冷たいアルミ箱を持っていると、ビニール手袋をしていても手の感覚が無くなるし、筋肉も限界になる。毎日両腕がパンパンになって、肩まで挙げられないほどだった。

日給6,000円。朝から夕方まで、シャケの沼の中で、ひたすら捌いて、運んで、積んで、冷凍して、また積んで、という繰り返しだ。

信頼されて、加工場の職員から「お前も1本ぐらい持って帰れ」と極上のシャケを分けてもらえるようになった。Oさんはシャケを持ち帰ると、ライダーハウスのオーナーに借りた大きい鉄板を出してきて「ちゃんちゃん焼き」の準備をする。そして、泊まっているライダーたちに声をかけるのだ。

「晩ごはんに、ちゃんちゃん焼き食べたい人いるか!?ひとり500円!」

すかさず腹ペコのライダーたちが10~20人、手を上げる。
廣瀬もOさんの料理を手伝った。集まった料理代は、Oさんや廣瀬たちで分けた。シャケ工場での1日6,000円の日当プラス、晩ごはんでのもう一踏ん張りで数千円増えた。

実は、廣瀬は最初、Oさんのやり方に戸惑った。

「ただでもらった食材。しかも、お店ではなく、自分たちの料理。そんなので、お金をもらっていいの?」

ところが、ライダーたちは、皆笑顔で、Oさんのちゃんちゃん焼きを頬張っている。それを見て「”商売”、”マネタイズ”ってこう言うことか」と気づいたという。

 

「僕らは、宿のライダーたちと違う2つの有利な立場があった。
1つ目は、いいシャケを食べきれないほど無料で仕入れられるという状況。
2つ目は、ライダーハウスに長く泊まっているから、オーナーから道具を貸してもらえて、料理ができる状況にあったということ」。

Oさんは「立場」をうまく、マネタイズする知恵を持っていた。廣瀬は、Oさんの横で商売のノウハウを身につけていく。実家の兵庫に戻った1993年の冬、Oさんと一緒に生きたままのタラバガニを全国に届けるネット通販事業を起こした。

当時の稚内港は、蟹を売りたいロシア人が、タラバガニを満載した船で交易にくる。だから、蟹は原価で手に入った。ロシアでは蟹を食べないからだ。代わりに、ロシア人は日本の中古車を、船から溢れんばかりに積みこんで、自国に戻っていく。

今でも産直直送の蟹はボイルが当たり前、その時代に「生きたまま届く蟹」「家で捌く」という体験型コンテンツとしてオンラインで販売した。

「世界初のオンライン産直通販だったと思う」と、廣瀬。

予想以上に、大当たりした。顧客からは「家族でわいわい言いながら、蟹を捌いて、楽しい時間になりました」という声が届く。

「やりたいことがあった時、
ぶつかった壁が、例えタブーでも
やれる方法をとにかく考えて超えていく。

 すると、違う世界が見えてくる」

Oさんとの日々で、気付かぬうちに廣瀬の中に流れるルサンチマンと、Oさんの方程式のパズルのピースがピッタリとハマっていた。

30年後の今、水源を守りたいという思いに端を発し、結果的に廣瀬は木工の世界の「1,000年のタブー」に挑戦し続けている。神山しずくプロジェクトは、そのものがタブーだらけだ。

「工芸に向いていないと言われている杉を、工芸品に使う」

「木目に沿って加工することが常識の木製品を、年輪が横になるように取る」

「木のコップを売るのが目的ではなく、木のコップで水資源・森林に興味を持ってもらうのが目的」

「マーケットのないところに、マーケットを創る」

工芸、林業、商業の様々なタブーに立ち向かって10年。今や、神山しずくプロジェクトは、タブーを「正義」にひっくり返した。森林保護や工芸の先駆的な活動として、国内外から評価されている。
2021年には農林水産省×内閣官房主催「ディスカバー農山漁村(むら)の宝」の準グランプリ受賞。シャツにジーンズの姿が定番の廣瀬は、授賞式にもこの姿を変えなかった。受付で官僚に上から下まで洋服を舐めるように見られて、受賞者扱いされず。「受賞者です」と言った途端に態度が変わった。省内にいた農水官僚の知り合いが「廣瀬さん!」と、挨拶にくる様子を受付の官僚は目を丸くして見ていた。

廣瀬のこうした姿勢の源流は、やはり30年前の稚内でのOさんとの出会いだった。それは今やしっかりと廣瀬の中に根を張っている。

廣瀬のタブーをタブー視しない視線は、節度や理のない、乱暴なやり方ではない。誠実でかつ戦略的だ。だからこそ、常識のオセロをひっくり返す力があるのだろう。

中国四国農水局からの同賞への推薦を受け入れたのは、SHIZQというタブーを、さらに林業の本丸・農林水産省へ訴えかけるための戦略でもあった。

 

今回の稚内滞在で、廣瀬はOさんに「僕、(北海道でいろんな釣りをしているのに)いまだにシャケは釣ったことないんだよね」と、ぽろっと話した。釣り好きのOさんは「じゃ、明日行こうぜ」と即答。

 

稚内の水平線と樺太
シャケ釣りに行く道中、車中から撮った1枚。水平線の向こうに樺太が見える

翌朝、稚内のシャケ釣りスポットに連れていってくれた。その堤防に並んでいたのは、3mおきぐらいに約100人の釣り人が糸を垂らしていた。廣瀬は、Oさんが用意してくれた定石の仕掛けを半ば無視した。長年のブラックバス釣りで得た感覚を信じて、自分だけの仕掛けに作り直した。準備をしていた30分ほどの間、周りは誰も釣れていなかった。廣瀬は、他の人たちよりも少し遠くに、仕掛けを落とした。廣瀬が投げたポイントを見て、周りの釣り人の中には「何も知らない素人が」という目で見る人もあった。

ところが。

廣瀬が竿を垂れると、針はすぐに動いた。廣瀬だけ入れ食いのように立て続けてに4本釣れた。シャケ釣りに慣れているOさんも思わず「俺にも釣らせろ!」。廣瀬の仕掛けで1本釣った。その後、さらに廣瀬はもう1本を釣り上げる。わずか1時間弱の間に廣瀬だけで、釣果は5本になった。「こんな大きなシャケが釣れたのは初めて見た」と、地元の釣り人が言う


周りの釣り人は、だんだん廣瀬のポイントに寄ってきた。

Oさんは、ケラケラ笑って、店に戻ると、自慢の包丁で大きな5本の鮭を軽々と捌いてくれた。

親分の包丁さばきは、体に似合わず丁寧で繊細だった。一枚一枚、切り口も美しい切り身にして冷凍してくれた。廣瀬は翌日、静岡の家族や親戚、神山でお世話になっている人、SHIZQのスタッフに向けて、丁寧に名前を書いて冷凍便を送った。旅先からの「絵葉書」の代わりだ。

稚内で釣ったシャケ

タブーかどうかは関係なく、自分の信じた道をゆけ。
周りは自然と着いてくる。

30年の間に、すっかり自然になったこの感覚で、廣瀬は生きている。

SHIZQは、その自然体の延長線上にあるプロジェクトでもある。