いつもSHIZQを応援してくれている皆さんへ
こんにちは!神山しずくプロジェクト代表の廣瀬と申します。
今年のGWは天候にも恵まれ、久しぶりに思う存分、休日を楽しんだ方も多かったんじゃないでしょうか。当たり前に休日を楽しめるこの日常を、これからも大切にしていきたいですね。
皆さんに支えられ、お蔭さまでこの7月に10周年を迎える「神山しずくプロジェクト」ですが、僕はなぜ、神山というこの場所で、こんなプロジェクトを始めちゃったんでしょうか(笑)
2022年、50歳を迎える節目の年。
ご縁があって、憧れのハーレーで北海道へツーリングに行くことにしました。ひとり旅を終え、この貴重な体験を「日記」として、皆さんと共有できないかと考えていました。
ところが、どうにも記事を書く時間が取れず、すっかり困ってしまった僕は、お友達のライターさんに相談することにしました。「僕の旅の話を聞いて、日記として起こしてくれないか?」と言う、めちゃくちゃな依頼を快く引き受けてくれたのがライターの阿利明美さんでした。
そうして始まった身勝手な取材、僕は旅の思い出を赤裸々に語ります。すると話を聞いた彼女の中に次々に生まれる疑問や興味。それに一生懸命答えているうちに、取材時間はとうとう12時間を超える結果となりました。この経験を経て、僕自身とっても大切なことに気づくことになりました。
30年前、軽い気持ちで友達と行った北海道ツーリング。そこで出会った人たち、初めて触れた地方の豊かさ。デザイナーとして独立し、都会で10年、そして神山へ移住。どうやらこれまで僕が経験してきたこと全ては、SHIZQに続く道だったのかも知れません。
題して【代表廣瀬の特別連載】SHIZQの源流をたどる(全4回)の連載記事としてお送りすることにします。
皆さん、ぜひご覧頂き、感想や質問、メッセージなどお寄せください。
第1話<プロローグ:炎に魅せられた礼文>
では、どうぞ!!
その日、廣瀬は日本最北の離島、礼文島の香深港に立っていた。 若い頃から憧れてきたハーレー・ダビッドソンを旅の共にできた50歳の今、どうしても、北海道を旅したかった。北海道に来たからには、礼文島に再び降り立ち、ハーレーで走りたいという熱情が湧いてくる。
旅の友は、ハーレー・ダビッドソン スポーツスターXLH883。バイクに乗り始めて30年目に縁あって、廣瀬の元にやってきた。香深港行きのフェリーにバイクを乗せるのも、30年ぶり。廣瀬は当時の愛車、ホンダスティード400よりも重厚感がある車体にまたがり、フェリーの船底に乗り入れた。
日本の最北限である礼文島は、徳島から直線距離で1,500キロ以上離れている。稚内港から、さらにフェリーで2時間。長い人生とは言えど、日本の最果てのさらに最果てまでくる機会は、そうそうない。
当時、廣瀬は20歳だった。
当時の愛車スティードとともに、20歳から数年間、お金を貯めては、北海道に戻って旅に明け暮れた。ライダーズハウスを出る朝、The Smashing Panpkinsのアルバム「Siamese Dream」(1993年)をCDプレーヤーにセットする。1曲目「天使のロック」のイントロのドラミングで、アクセルを開ける。バイクのエンジン音と、ドラムのリズムが重なる。見渡す限りの原野に突き抜ける一直線の国道。ビリー・コーガンの色気のあるダミ声がシャウトする。そこでまた一段、スピードを上げ、風を切って走った。旅の先々で知り合う仲間達とは「金ないねー」と言いながら、笑いあい、北海道の旅を満喫していた。
廣瀬は、兵庫県尼崎市のニュータウンで育った、いわゆる団塊ジュニア世代である。1970 – 80年代、高度成長期からバブルにかけての少年時代。人口の都市部一極集中を避ける国策で各地にニュータウンが作られ、廣瀬のいた市営団地は、30号棟まであった。
同級生はあれほど多くいたのに、彼らが選んだ進路は、高卒で工場勤務か、大学進学のほとんど二択。日本が「土の匂いのする暮らし」から離れて、「消費社会」を突っ走り始めた時代の、真っ只中で生きてきた。
廣瀬は、「消費社会」というパズルの盤面を埋めていくピースの形に、自分が当てはまらない、もしくは、当てはまれないことに薄々気づき始めていた。人間としての本質を伸ばすのではなく、既製品のパズルの「形」に合わせて育てられるような教育の中で、形にはまることなく、かと言って形を壊すこともなく、中学・高校時代を過ごした。
中学では、いじめられっ子、いじめっ子、両方を経験した。中高とやっていたテニス部では、先輩と反りが合わず、やめた後はパンクバンドのメンバーになった。不良の友達も、真面目な友達も多かった。
一方で、真面目にも、不良にも振り切らない。
「どっちにも合わせられるけれど、
どっちにも寄らずに、自分があんまりないという状況だった」。
仕事には思いがあった。中学時代から「マンションの一室で、完全予約制、お客様のために、自分1人が最初から最後まで、丁寧に施術する美容室」を構想した。美容師ブームが来る約10年前のこと。サロンで一対一というサービスのあり方など、誰も想像もしなかった時代だった。
イメージを実現するために美容師業界に入ったが、実際の現場は思い描いていたものとほど遠く、1年ほどで辞めてしまった。 廣瀬のピースは、まだ社会にはまらない。
北海道へ向かうきっかけは、高校時代の悪友と「バイクで旅をしようぜ」という話から。2週間の予定だったが、これを機に、廣瀬は旅へと突き動かされることになる。
旅で出会った奴らは、強烈だった。交通事故の保険金で旅を続ける人、新装開店のパチンコ屋を巡って旅を続ける人。廣瀬曰く「ろくでもない奴らだよね」。社会のパズルにどうにも合わない、愛すべき仲間たちと走り抜ける北海道の日々は、最高だった。
「みんなと違っても良い」「社会のパズルにハマらないピースであっていい」という暗黙の価値観は、廣瀬を自由にした。
特に「礼文島」で過ごした強烈な1週間は、いまだに全身が覚えている。ライダーハウスで知り合った気心の知れた仲間も一緒だった。スティードもフェリーに乗せて、この最果ての地に来た。
小さなキャンプ場は、夏休みだというのに貸切状態だった。キャンプ慣れした仲間は、焚き火もお手のもの。この時は、大きな丸太を囲むように薪を焚べた。いくら薪を焚べても中央の丸太には、なかなか火がつかない。それでも、毎晩、焚き火を囲んで、皆で酒を飲んだ。
最果ての潮風を切って、信号機もない道を走る。焚き火を囲んで酒を飲み、泣いて、怒って、大笑いする。天の川の下、泥のように眠る。また朝日の眩しさで起きる。時間はたっぷりあった。
日焼けした。
二日酔いになった。
絶海の孤島で、生きる欲望に自由になれた。
ある夜。
雨のような流星群が、廣瀬たちの上に降り注いだ。
周りは灯りひとつないから、小さなものまで、よく見えた。
いくつもの流れ星を数えるうち、突如、青白い炎の玉がメラメラと、まるで音まで聞こえそうな勢いで落ちてきた。
その炎の玉は、仰向けになった廣瀬の頭の先から、足先まで、視界いっぱいを一直線を描いて飛んでいった。流れ星というよりも、地上に墜ちる隕石そのものと、表現したほうが相応しい。
一瞬ののち、仲間から口々に「ウワーッ!」と大声が出た。廣瀬の幻影ではなかった。
「煙が飛行機雲みたいになってたんでしょうね。一直線の残像が目の中に残ってますもんね。30年経ってもまだ覚えている」。
過去最大級のペルセウス座流星群だった。記録によると、1時間に100個以上も観測されたという。 同年の12月には、ペルセウス座流星群の母彗星、スイフト・タットル彗星が地球に133年ぶりに大接近。あの日は、130年に1度あるかないかの夜空だった。
「縄文人って、毎日あんな暮らしだったのかもしれない」。
廣瀬は当時を振り返りながら、こう漏らした。
日焼けもして、髭もかなり伸びた礼文島滞在の終盤。とうとう、焚き火の真ん中の大きな丸太から、炎が上がり始めた。
孤島の太古の闇を照らす、巨大な丸太。丸太の小口部分が、年輪に沿って赤いラインを描くように、ふわっと光りはじめる。ラインは長くなったり、短くなったりしながら、時折、年輪をぐるっと一周する。火花の年輪を一瞬たりとも見逃すまいと、廣瀬の目は焚き火に集中した。その光の像は30年経った今も、廣瀬の瞼の裏にありありと残っている。
印象的な場所だった。けれど廣瀬は「また30年前と同じ場所に行くのはなんでだろう?」と首を傾げる。
何度も、何度も考え、しばらくのちに出てきた答えが、こうだった。
「何もないのに繰り返しいくのは、多分、あの奇跡みたいな夜を忘れないために、というのはあるかもしれない」。
「当時の教育システムの中、こうあるべきという価値観を刷り込まれて育ってきたけれど、あの頃から、何か腑に落ちない社会の常識に対して、僕の中で、ルサンチマンみたいなのがあった。それが、北海道の旅で生まれ変わった」。
枠の中から出られないでいる自分から、一気に「自由」に振り切り、そのままの自分で大丈夫。と、自分のピースを信じられるようになったのが、北海道の旅だったのではないか。
2022年10月。
快晴の空のもと、奇跡の夜を過ごした、あの礼文島を走り抜けた。30年ぶりに北海道を旅したことで、自分自身のことが、解りかけてきた。
若き日、人生を変えたあの経験の数々、そこにSHIZQに至る「源流」が、確かにあった。
これは、50歳の節目の年に、それらを紐解く、4回の連載である。