【代表廣瀬の特別連載④】SHIZQの源流をたどる <希望をデザインする神山>

旅の最終日、廣瀬は、The smashing pumpkins(スマパン) を思い出し、昔のように聴きながら走った。

当時、スマパンの曲に重ねていたのは、スティード400のエンジン音。
長髪の「赤パンのジェロ」は、風に髪を靡かせて走った。

今は、ハーレー独特の、太いエンジン音が、スマパンにうまい具合に重なる。

あれから、何があったろう。

20歳前後は、短期の仕事で稼いでは、北海道に戻って旅をする日々だった。旅の途中も、お金がなくなったら、その土地土地で働いた。雪が降り出す頃に、北海道を脱出し、紅葉と共に本州を南下し、また都会に戻った。

美瑛の丘 愛車スティードと共に
美瑛の丘 愛車スティードと共に

そんな暮らしが数年続いた頃。
地元の同級生たちは、社会人として、どんどん立派になっているように見えた。

 

ある日、稚内のノシャップ岬で決意した。

旅から、足を洗おう」。

関西に戻って働き始めた廣瀬は、旅仲間になかば強引に、北海道に連れ戻されることもあったが、次第に都会の生活に慣れていった。
90年代のクラブカルチャー全盛の頃。出入りするようになった大阪や京都のクラブで、次第に運営側に回るようになり、イベント企画やプロモーションのようなことを始め、独学でフライヤーを作ったり、映像アーティスト(VJ)として活動した。これを機に、商業デザインに興味を覚える。デザイン会社に潜り込んだり、某大学のインハウスデザイナーとして経験を積んで5年。クリエイターとして、仕事ができるようになっていった。専門的にデザインを学んだことはないのに、本質を突く廣瀬の仕事は、業界で高く評価された。

先の尖ったピカピカの革靴、ブランド物のジャケット、撫で付けた髪の毛。
クリエイターにとって、洒落たパーティーに招待されることがステイタスでもあった。廣瀬も、その中にいたが、セルフブランディングに躍起になっている人たちと飲んで、よく喧嘩した。

「このグラフィックどう?上手いでしょ」
「うーーーん…上手いってなに?」

「このタイポグラフィの良さ、わかる?」
「うーーーん…でも、それで伝わってる?人集まったの?」

デザインの役割というのは必ずあるのに、当時のデザインの在り方には、違和感があった」。

北海道で地方の豊かさを痛感した廣瀬は、独立当初、目指す「暮らし方・働き方」のビジョンをはっきりと持っていた

ゆくゆくは都心ではなく和歌山あたりの田舎に、古い工場を改装して広いオフィスを持つこと。
みんなが思い思いの場所で、自由に仕事をするスタイルをとること。
オフィスを一歩出ると、そこには畑や川があって、畑いじりや、釣りを楽しみしながら、世界に通じるデザインをすること。

今でいうコワーキング、ワーケーションが定着する20年も前のことだ。美容師に憧れた頃の個室対応のお店のように、自らの中から湧いてきたイメージだった。

そして、2011年3月11日。
東日本大震災があった。

クリエイターの間に、ふるさとや、思い入れのある大事な「まち」と自分との関係を見直す動きが小さく生まれた。仕事を離れて、クリエイターが自分と向き合い、まちへの思いを小さな冊子にする「マチオモイ帖」の活動が始まる。

当時、廣瀬は大阪のデザイン業界にいて、「わたしのマチオモイ帖制作委員会」の最若手として活動に加わった。普段は、広告やプロモーションなど、商業的な仕事を受けるクリエイターたちが、街や自分に向き合う。「僕らの能力って、社会を変えることもできるんじゃないか?」と、感じるようになった活動だった。

大阪から始まったマチオモイ帖は、全国を巻き込み、2012年2月、クリエイターの憧れでもある東京ミッドタウン デザインハブでの大規模な展覧会に発展した。
東京ミッドタウン・デザインハブ特別展「my home town わたしのマチオモイ帖」は、会期17日間で7400人以上が来場、デザインハブの展覧会の中でも大盛況だったという。

デザインハブは、クリエイターにとっては憧れの地。廣瀬は、現場の空間設計や什器制作、展示システム、WEBサイト構築など、裏方の仕事に徹した。作品のぬくもり、マチオモイ帖の世界観が感じられるよう、ペンダントライトをアイキャッチに、シンプルな木のテーブルや布を使った空間デザインは好評を博した。

10年経っても忘れられない会話がある。このオープニングパーティーでの出来事だ。

クリエイター憧れのデザインハブで、大仕事をやり遂げ、廣瀬は天狗になっていた。

会場で、ITベンチャー「ダンクソフト」の副社長、渡邉徹さんと出会った時の会話、
神山町って知ってる?いまSO(サテライト・オフィス)の実証実験やってるんだ。
古民家のこたつに座って開発したり、神山の環境を楽しんだり」。

10年前に描いたビジョンとピッタリ重なった
この瞬間まで廣瀬は、社会のトレンドに巻き込まれ、東京で天狗になっていた。
今の自分は、どこに向かっていたんだ。やりたかったことを何もできていない。

 

まさか、このタイミング、六本木のど真ん中で、
自分のビジョンを思い起こすことになろうとは、まさに青天の霹靂だった。
この日を境に、廣瀬は自分を取り戻す。

パーティーから2ヶ月後、神山を初訪問した廣瀬は、6ヶ月後にはもう引っ越していた。

当時40歳。

「独立して10年、社会の大きい渦の中で、揉まれて、自分を失っていこうとしている中だった。
その時、”お前、そっちじゃないだろう?”と神山に引っ張られた感じがします」

古民家に引っ越して、地域の人とつながると、おすそ分けをたくさんもらった。
「野菜、もってけ!お返し?お前、そんなもんいらん!」
廣瀬が過ごしてきた消費社会とは全く違う、あの時、旅で見た地方の豊かさが、ここにある。

神山では、毎日がキャンプのようだ。
相変わらず、仕事は忙しかったが、
薪ストーブで暖をとり、川や湖で釣りに興じている。

思い描いていた暮らし方、働き方だった。

豊かな自然環境だと思っていた神山。
暮らしてみて、初めて気づくことがある。

町を流れる鮎喰川の水が、3分の1まで減っているという。
神山町に全体に広がる針葉樹の山々は、高度成長期に作られた人工林。
単層林に変わったことで、森林の持つ水源涵養をはじめとした公益的機能が失われつつある。

儲からないという理由で、切らなくなった杉は、
戦後70年を迎え、いよいよ大きな影響を及ぼしている。

水が無くなったら、神山に住めない。
どんなに神山が好きでも、住めない。
地方創生を進めたとしても、水が枯れたら、住めない。

一番、解決しないとならないのは、人口減少よりも環境だ。
同じことが全国で起こっているはずだが、ほとんど着目されない。

環境の問題は大きすぎる。
町民ですら、諦めている大きな問題だ。

「この真っ黒なオセロの盤面をどうひっくり返すか?」。
廣瀬は考えた。

杉の新しい価値を見出し、杉の利用を広げよう。
森と人の循環を創造し、社会の行動変容へ繋げよう。

2013年、神山しずくプロジェクトは「そんなもんできるわけがなかろう」という嘲笑の中で生まれた。

SHIZQのカップで利益を出すことが、最終目的ではない。
カップは、活動のアイコンとして、山林と水源への気づきをもたらすためのもの。
神山しずくプロジェクトは、単純な「商品の販売」ではなく、社会に「意識変容」を促す”活動”なのだ。

僕が最初のオセロの白だとすると、SHIZQのカップを持ってる人は、もう1枚の白なんです。
僕とその人との間にいる人も、白に変わる。
僕ひとりではできないけど、盤面を白く変えられる

小さな力で、盤面をひっくり返すために、都会で経験したことを活かす。
ブランディングという名の反逆のプロパガンダだ。

ミラノ万博に出展したり、日本のGOOD DESIGN賞、イタリア国際デザインコンペのソーシャル部門で金賞を受賞したり、農水省と内閣府の賞を受賞したのも、はっきり言って、廣瀬の戦略である。10年経って、ようやく事業が回り始めたが、廣瀬は、神山しずくプロジェクトには投資するばかりで、対価はもらっていない。次の世代のために循環させることが目的だからだ。

廣瀬は、森や水源に対して、無関心な世の中を大きな湖に例える。
高度成長期、バブル経済、リーマンショック、コロナ、紛争、
いろんなものが撹拌され過ぎて、何が大事なのか見えなくなった社会は、
「思考停止」「無関心」な、まるで凪の湖。

そこに、一滴の”しずく”を垂らすことで、波紋を生みたい
この”しずく”の純度が、高ければ高いほど、社会に広がるんじゃないか。

だから、活動の純度を高くすることにおいて、SHIZQは妥協したくない。

SHIZQのメンバーは、毎年冬の伐採期、山に入って、自分たちで木を伐る。
鮎喰川の支流の水を引いた田んぼで、無農薬の米を作る。
SHIZQの職人は、地元の炭を使って鍛治仕事で刃物を作る。

ミシ..バリバリバリ!ドッシンッ!

廣瀬は、初めて木を伐った時、直感的に気付いたと言う。

「木は”生き物”だったんだ。命をいただいている」

木を伐ることで、一帯の環境が変わる。
全部、繋がっている」。

だから、神山しずくプロジェクトでは、伐った杉を余すことなく使う。
これでもか、というくらい、一貫した哲学で動いている。

「マーケットはそこにはない。
SHIZQは、ゼロからマーケットを作っているんです。
僕は、希望をデザインしている。
実は、何度もやめようと思ったけれど、
SHIZQを始めてからの僕の10年は、そこに希望があるから続けてこられた。
小さくていいから、若い世代に、いい感じのバトンを渡していきたいんです」

振り返ってみると、廣瀬には10年ごとに人生の節目があるようだ。
20歳の北海道、30歳でデザイナーとして独立、40歳の神山移住、そしてSHIZQ10年目の50歳。

社会のパズルに、自分のピースがハマらず、自分を持て余していた10代。
北海道の旅で、廣瀬圭治という独自の方程式を持つピースが生まれた。
その方程式を社会に試すように訓練をしていたのが、30歳をまたぐ大阪での10数年だった。

そして、神山に出会い、方程式の原理に合わせて、行動を起こしたのが40歳からこれまでだったのだろう。

スティードの頃は、若くて自由、軽快なエンジン音で走っていた。今は、ハーレーの重みのあるエンジン音が、しっくりくる。実はこのハーレーは、創業100周年記念モデルの2003年製、廣瀬がデザイナーとして独立した年に作られた。北海道から戻って、迷いながらも自分で道を切り開き始めた年。不思議な縁、タイミングを感じる。

旅の最終日、ふと思い出してSpotifyでスマパンの「Siamese Dreams」を呼び出した。バイクで走りながら聴くのは、本当に久しぶりだ。

1曲目の「天使のロック」で
イントロから、涙が溢れてきた。

2曲目の「Quiet」の疾走感で、
アクセルを開ける。20歳の自分が蘇ってきた。

3曲目の「Today」で、広大な青空と一本道の風景と自分が一体に。
「武装解除」「宇宙兄弟」、当時のことが走馬灯のようにめぐる。

最後の2曲「Sweet Sweet」「Luna」で次第に気持ちが落ち着き、周りの景色を見る余裕が生まれてきた。

なぜ、廣瀬は、50歳というタイミングで、北海道に再び戻ったか?

廣瀬の持っていたパズルのピースは、20歳の北海道で解き放たれた。

パズルの穴に嵌め込まれることから、自由になり、自分の核となる生きる姿勢、明確な美の基準が形成された。

結果的に、廣瀬の中の「核」が蠢き続けた結果が、今の神山しずくプロジェクトだったとも言えるだろう。今、廣瀬は、炎の玉のようにエネルギーをまとったピースを、社会というパズルの大きな枠そのものに投げかけている。

「その価値観は、本質的なのか?」
「思考を、止めるな」
「行動し続けろ」

廣瀬の投げかける提案や想いは年々、重く大きくなっているが、共感してくれるスタッフやファンも沢山居る。


「これまで暗中模索しながら
信じてやってきたことで
より深く将来の在るべきビジョンが見えてきました。
今度は、そこに向かって一歩踏み出そうと思う」

2023年7月。
神山しずくプロジェクトは、10周年を迎える。
廣瀬のこれからの10年は、今はじまったばかりだ。