神山の暮らしから考える、鹿と人との関わり

こんにちは。神山しずくプロジェクトの鈴木です。
早いもので、神山に移住してから4度目の冬を越しました。
今年は例年に比べて温かいなぁと感じていた通り、蝋梅も梅も開花が早かったので、桜の見ごろも早まるかも知れませんね。

なんて、今では言えますが。
関東平野で生まれ育った私にとって、山に囲まれての生活は新鮮なものでした。

中でも驚きの一言は、夜のイベントからの帰り際の
「鹿に気を付けてね!」
夜道に鹿が飛び出してきて事故になるから、ということでした。

今まで生きてきて、気にもしたことのなかった鹿。

後日、夜道で初めて鹿を見たときに「わー!鹿だー!」と、歓喜の声をあげたのを覚えています。
なるほど山では、当たり前に遭遇する動物なのだな…とその時は感じました。

しかし、のちにそれが実は異常事態であること、「獣害、害獣駆除」なる言葉があることを知り、驚愕することになるのです。

 

有害鳥獣駆除員ユニフォーム
有害鳥獣駆除員ユニフォーム

 

きっかけは、友人が猟師になったこと。

それまでの私にとって、猟師といえば、「鉄砲で獣を撃って食料にしたり毛皮を利用したりする人」という昔話で得られるような知識だけでした。

ところが、友人の目指した猟師とは、「有害鳥獣駆除員」という存在で、「害獣」に指定されている鹿や猪を捕り、報奨金を得るシステムであることに驚きました。

鹿が増えすぎている、ということも初めて知りました。

増えすぎていることで、畑の作物を食べられてしまって困るくらいまでは想像できましたが、鹿が木の皮や草を食べつくしてしまうことで山が荒れていくなんて、思いも至りませんでした。

しかし、だからと言って、人間の勝手で「害獣」呼ばわりして、ただただ殺してしまっていいのだろうか?

友人に疑問をぶつけてみました。

曰く、多すぎる鹿は結局食料にありつけなくなって飢え死にするのでどちらにせよ死ぬ、駆除した鹿を捨て場に捨てたら、野生動物の餌になるので無駄にはならない。

それもそうか…と思える答えではありましたが、もやもやは晴れることなく、相変わらず心のうちに巣くっています。

 

夜道、鹿。
夜道では鹿に本当に良く出くわします

そんな中、2023年7月29日に神山しずくプロジェクト10周年記念事業として開催された「昔の暮らしと、森に想いを寄せる勉強会」ゲストトークにてのゲストの言葉にさらなる驚きがありました。

昔は、鹿は山の奥のほうにしかおらず、見ようと思っても見られない動物だったし、メス鹿は狩猟対象外として保護されていた。神山町全体でおそらく100頭もいなかっただろうとのこと!(現在は4000~5000頭ほど生息との予測)

そして、獣害は人災だという言葉がやけに胸に残りました。

この数十年で急激に頭数が増えたのはなぜ?そのことも一緒に考えねばならないと知りました。


その頃、並行して
「坂田の杜 第3期」を受講。
カリキュラムの中に、受講者同士の対話の場、各人が話したい議題を持ち寄って、ディスカッションできるコミュニティギャザリングという時間があります。

とある回で、私は常々抱いていた「害獣として鹿を駆除することへのもやもや」を議題としてあげてみました。

参加者の中から出た実践例として、森の中に動物たちが豊かに食べられる場所を作っているという話に目から鱗でした。森の中に食べられるものがあれば、鹿はわざわざ危険を冒してまで人里に出てきません。休耕地や耕作放棄地も有効活用できるし、ナイスアイディア!と思いました。

が、これでは、殺生をしないという点は良くとも、現在の増えすぎた鹿の頭数を減らす、ということには繋がらず、一長一短だなと今は考えます。

もうひとつ、良いアイディアだなと思ったのは、坂田さんも詳しく解説してくださった「里犬」。

江戸時代までは、犬は共同体(村や町)で所有する動物だったのだそうです。

繋がれておらず、町をうろうろしている彼らのお仕事は、子供の遊び相手でもあり、知らない人が来たら吠えて知らせ、そして、獣たちを追い払う。里山の生態系の中に組み込まれていた彼らは、人と野生生物たちの間に入る存在でした。

自然には自然の力で対策をする。全くその通り。

実際、サルの群れを追い払う「モンキードッグ」を許可している自治体では、大きな効果を上げているそうです。

行政上の問題はありますが里犬が認められるようになれば、少なくとも農作物への獣害は減るのかもしれないなと思います。

このように実践例や坂田さんのお話など、コミュニティギャザリングで「考える種」をいただけて参加できてとても良かったなと思いました。

しずく主催の坂田昌子さんと歩く大粟山ウォーク
見慣れた神山の山も坂田さんと歩くと解像度が一気に上がりました

しかし、その後ももやもやが解決したわけではなく、今に至ります。

「結局のところ、適正頭数にまでは減らさないと、生態系が維持できないんだよな」という考えと、「だがしかし!のべつ幕なしに駆除すればいいってもんでもないだろう」という思いとの折り合いがつきません。対処療法だけを追い求める違和感もぬぐえないのです。

でも、このもやもやを通して、私の「内なる自然」が培われていくはず。これを持たないまま、遠い存在として自然を眺めているだけでは私が「しずく」の活動に参加している意義も片手落ちになってしまうような気がするので、もやもやが解決しないことにも意味があるのだろうと今ではそう思っています。

同時に、行動に移すこと。
それが、例え小さな一歩でも、やるべきことを見出して、踏み出そうと思います。