神奈川→徳島 10年前と10年後の私。

こんにちは。主任の渡邉です。

今日は、東日本大震災から10年の日。

被災された方々やご遺族、今なお復興の途上にある方々には、
謹んでお見舞いを申し上げます。
私を含め、まだ多くの方が複雑な思いを抱えられている中、
本当の穏やかな日常が少しでも早く取り戻せます様、
心からお祈り申し上げます。

10年前、私は神奈川県で会社員をしていました。
その頃と比べると真逆と言われるほど、
随分と生活が様変わりしましたが、
そのきっかけとして震災は大きなものでした。

きっとみなさんにも、
それぞれの10年があったと思います。

 

今日は、そんなひとつの例として、しずくスタッフの一員である、
私の10年前と、10年後どんな変化があったのかをお伝えしようと思います。

 

10年前のあの日

10年前の今日、14時46分。
2階で昼休憩中に地震が発生。
慌てて外を見下ろすと、目の前の横断歩道が波打ち、
人々が踊るようにバランスを取っていた姿を、今でもはっきりと覚えている。

電車と新幹線に乗れない人たちが構内に溢れる通勤路を通り過ぎ、
歩いて家に帰れる、たったそれだけの事に大きな安堵を感じた。

 

テレビに映る衝撃的な映像と事故の事実。
靴をベッドの脇に置き、眼鏡をしたまま寝るか否かを真剣にTwitterで検索した。
疲れて帰っても電気が点かない計画停電の夜。
それでも家があって仕事がある自分は頑張らなければ、そう言い聞かせていた。

何をどう頑張ればいいのか?
頑張ってどうなるのか?
分からないけど、
分からないからこそ目の前の事をやるしかなかった。

そこには得も言われぬ無力感だけが横たわっていた。

それをあの震災で突きつけられたのです。

 

頑張れば明確な答えが出ると思い込んでいた

子どもの頃から勉強と部活、その与えられた事を一生懸命やってきた。
嫌だったわけではない。
その時々、その世界がすべてだったし、その中で楽しくやってきた。
頑張って結果が出れば単純に嬉しかった。

それを繰り返し、いよいよ社会人。
証券会社の営業。
早起きも数字も苦手なくせに将来の自分のためになるはずと、修行のつもりだった。

それでも大人として、社会に出れば大きな自由が手に入る気がしていた。
頑張れば何かしら成果がでると思っていたのです。

高校までは地元を出たい一心だった

 

入社して半年後のリーマンショック

2008年9月、100年に1度といわれる金融危機が起こった。
株価・為替の大暴落にまだ自分の顧客のいない私は、上司や先輩の慌てふためく姿を対岸の火事のように眺めながらも、明日は我が身と心中震えていた。

なかでも、1つ上の先輩の姿には心を痛めた。
たった1年入社が早かっただけ、その期間せっせと作った自分の顧客に頭を下げ続ける日々が始まった。
さらにその奥には20年勤める課長が同じように顧客対応をしていた。

あれ? 20年のキャリアを積んでも、この世界にはほとんど為す術がないんじゃないか。それをハッキリと目撃してしまった。

 

為す術のなさ

社会人として会社で成果を上げる。
そのことが、どんどん小さな枠の中に適合する事だと感じるようになっていった。
毎月の売上目標を達成しても、未達を防げたと胸をなで下ろすだけで、喜びはなかった。いつかの頑張った成果を喜ぶ純粋ささえも失っていた。

リーマンショックの後も、震災の後も、自分に何かができる自信も気力も持っていなかった。
どうしようもない、どうにもならない、涙すら出てこない。

何か大きなものに覆われた閉塞感すらあった。

 

このままじゃ嫌だ。
そうぼんやりと思うところから、ハッキリと自覚し行動に移せるまで、私は5年もの時間を費やした。
今まで努力してきたものを手放すのも、未知の、ましてや答えのない世界に飛び込むのにも自分で作った沢山のハードルが邪魔をしていた。

証券業時代。連日飲んだ帰り自分の影をふと撮っていた

 

その先にあったもの

私の場合、小さなステップを踏みまくり、たまたま徳島の神山にたどり着いた。
過程は割愛するが、紆余曲折・試行錯誤の末、10年前の私からは到底想定のできない結果だ。

今は、自分のいた小さな支店よりもさらに小さな会社で、仕事をしている。
気付けば証券会社の長い長い5年間を越え、こちらで6年が経っていた。

同世代の漆職人&仲良しクリエイターさん達としずくチームでお花見

10年が経ち、どんな変化があったかと言えばざっと3つ

まず第一に健康になった

定期的に風邪や発熱・扁桃炎やウイルス性の炎症に罹っていた私。
それが普通だと思っていたが、ここ数年そんな症状はまったく出ていない出る気配もない。
田舎暮らしをしてまっさらな健康体になった訳ではないが、体調も体質も変えられる可能性があることを体感している。

もともと大病持ちではなく、デスクワーク中心の一般会社員に少しストレス強めのおまけくらい。それでも慢性的なだるさや肩凝り、たまに寝込むとかその程度でも、無くなってみるとすこぶる快適なのだ。

体力と気力が少しでも残っていると、小さなことでもチャレンジしてみる余裕に繋がる。
その積み重ねが自分の生活を昨日よりもちょっといい感じにしてくれ、今日の満足感を少しずつ上げてくれる。

 

かつて自炊放棄宣言をしていた私にパンや納豆を自作すると言っても絶対に信じてもらえない

個人としての自信がついた

会社の看板が外れたらただの人、これは大企業ではよく言われることだ。
私も例外ではなかった。何より、上司や周りに評価される”答え”を求めて動いていた。

今は仕事と生活が緩やかに繋がり、どちらで頑張ってももう片方に通ずる柔軟さがあって、解放感を感じている。
あまり器用ではない私にとっては仕事もプライベートもそれぞれ別個に考え、それぞれを頑張る方が難しかったのだと今になって思い至る。

誰にでも得意・不得意はある。
以前の私は不得意をなんとか消そうと徒労していた。不得意は誰かや何かにフォローしてもらい、得意なことを活かす。
たったこれだけのことを自分に許せて、そうさせてくれる環境に恵まれて、ようやく肩の荷を下ろす事ができた。

 

 

休日に1人で薪の材料を運ぶ。マニュアル車の運転もチェーンソーも年単位で習得したので達成感がすごい

日々、確かな手応えと気づきがある

それって要は、為す術があるのだ。
あれだけ為す術がない、と虚無感に襲われていたのが嘘のよう。
どんなやり方でも構わない、自分で考えてやってみる事ができる。
その気力が今の私にはある
失敗してもいい、そう思えなかったのは、正しい答えをスマートに出すべきだと思い込んでいたから。
でも、ここにはテストの答案のような綺麗な答えなんて、全然ない。だから、自分でこれでよし、とするしかない。

 

森ガールファッションだった20代から一変。現場で役立つガチ森ガールをめざしている

私はここを、未知の答えのない世界だと思っていたけど、そうじゃなかった。

答えを自分で決める世界
なのだ。

自分で決めるにはとても労力がかかる。誰かに決めてもらう方がよっぽどラクだ。
チームを運営する立場になって知った。答えを出しておいた方が人数が増えるほど統率が効く。

それが分かっていても答えは自分で導き出すのが、しずくのやり方だ。
間違いも失敗もつきもの。それを引き受け、それでも自分の頭で考えることを是としてくれている。

だから無力さに打ちのめされて悔し涙を流すことは、今の今でも起こる。
不甲斐ない事ばっかりだ。でもそれは進もうとしてる証拠。
涙も出なかったあの頃よりは人間らしくいられてるんじゃないか。
そう思えるまでになった。

 

それと同時に思うことは、

いつか幸せになりたい。いつか自由になりたい。
いつか本当に楽しく仕事ができて毎日すこやかに過ごせたら。
ずっとずっとそう思っていたけど、

そのいつかは今なんだ。

10年はなかなかに長い時間だ。それでも始めなければ、望む方向にはきっとたどり着かない。
だから私もここから次の10年に向けて、進み始めようと思う。

 

そんな風に思えた10年後に、こうしてあなたにお伝えできたこと、ほんとうに有難いことです。
また次の10年後にもそんな気持ちでいられるように、私はこれからもここで毎日たのしく頑張っていきます。