SHIZQから贈る言葉

神山町の山々
神山町の里山風景

 

皆さん、明けましておめでとうございます。

旧年中は大変お世話になり、心より感謝申し上げます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

まずはじめに、石川県能登地方で発生した能登半島地震で犠牲になられた方々へお悔やみを申し上げるとともに、被災されたすべての方々にお見舞い申し上げます。被害が最小限になりますように、少しでも不安がやわらぎますように、被災地へ心を寄せていきたいと思います。

 

新年のスタートにあたり、いつも神山しずくを応援してくれている皆さんへ「内的自然(ないてきしぜん)」という言葉を贈りたいと思います。

 

2023年7月、神山しずくプロジェクトは10周年を迎えることができましたが、私がこのような活動を始めたわけが、ようやく自分自身理解できるようになってきました。今日は、そんなお話をさせていただきます。

 

11年前、神山に居を移したことを端に、みどり豊かに見えていた山々は、実は戦後に植林した人工林で、植林してからおおよそ60年の間に、森が本来持っている多面的な機能が失われつつあり、とりわけ「水源涵養機能」が失われていることに氣づき、少しでも水を取り戻そう、未来の子どもたちに一滴でも多くの水を残そうと活動をスタートしたのでした。

 

杉を間伐し山に光を届けることで、山林環境が良くなり、水源涵養機能が回復すると信じて(当時は間伐が解決策だと言われていた)、人工林の課題の啓発とともに、杉を価値化し、杉を使う活動を行って参りました。

 

しかしながら、この10年、毎年毎年、山に入って杉の木を間伐してきましたが、環境が良くなる実感を得られず、ここ数年ずっと違和感を抱えながら、なぜ環境が良くならないのか?を自問自答し、その原因を探るために、自分なりにさまざまな勉強を重ねてきました。(間伐が無効という結論ではありません。神山しずくプロジェクトでは、これまで通り杉を間伐し、価値化し、その利用を進めていきます。山林の環境改善には、地表だけではなく、土中環境に目を向けた施行が有効という考えに現在は至っていますが、その話はまたの機会にさせていただきます。)

河合峠から望む剣山系の夕暮れ
河合峠から望む剣山系の夕暮れ

 

そんな折、知人を通じて「生物多様性」の専門家、坂田昌子さんと出会うことになりました。2021年11月のことです。

 

ところで話は変わりますが、私は自分の中にあるルサンチマン(*)に似た感情が、自分自身の最も嫌いなところで、その負の感情をどう抑えればいいのか?どう付き合っていくのがいいのか?と、大きな悩みでした。

 

学校では、嘘をつくのは罪であり、正直に真面目に頑張れば、ちゃんと幸せになれる。そう教わりました。

 

なぜ、多くの政治家は国民を蔑ろにする?

誰がどう見ても理不尽な道理が、なぜ正当化される?

金融資本主義、民主主義崩壊への憤り。など

 

たくさんの疑問を解消するため、自分の頭で考え、判断するため、日本史、世界史、政治、貨幣、経済、エネルギー、金融など、自分なりに情報を集めて勉強しています。最近では、古代史、旧神道や世界の宗教、そして文明、人類史などを追っかけています。学生のころは、とんと勉強しなかったのに笑えますよね。

 

そんな私の中にあるルサンチマン的着想は、物事の奥底にある資本的で理不尽な考えや愚行に向けた憤りだったと、ようやく氣付きました。

 

(自分を含め)人はなぜ、目の前の利しか見ず、愚行に走るのだろう?

なぜ、そちらを選択してしまうのだろう?

ずっとずっと疑問に思ってきました。

 

さて、話は「生物多様性」の坂田さんとの出会いに戻ります。

2021年11月。知人からの勧めで、坂田さんのオンライン講座「坂田の杜」の1期生として、半年間、生物多様性を学ぶことになりました。

 

「生物多様性」と聞くと、生き物がたくさんいることが良いことで、動物愛護のための環境保全をやっていこう的なイメージはありませんか?私自身もそういったイメージと似たり寄ったりのイメージを持っていました。

 

「生物多様性」をひと言で説明することは非常に困難ですが「動物が可哀想」とか「自然がいっぱいで美しい」とは、似て非なるものです。

大粟山の倒木が朽ちて苔が生す様子
大粟山の倒木が朽ちて苔が生す様子

 

例えば、菌類や微生物、昆虫や植物、動物といったすべての生き物の「食う食われる」関係、それが我々の想像を超える規模で、複雑かつ多様であることの「尊さ」が、基本にあると私は捉えています。

 

産業革命以降の資本主義社会は、未だかつてないほどのスピードで、その多様性を壊していること、そこには人の暮らしや文化、思想や信仰が密接に関わっていて、我々の暮らしそのものをも危ういものにしている事態だと言うことを知りました。

 

つまりは、我々自身も、何千年、何万年と営まれてきた尊くも大きく素晴らしい奇跡の仕組みの一部だということを「生物多様性」から学んだのです。

 

今では、私自身が、坂田の杜の運営チームの一員として、その活動を支えるメンバーとして携わっています。今年の4月から第4期がスタートする予定なので、皆さんにも改めてご案内させていただきます。

 

生き物や環境が大切なことは、誰もが知っているよ。

 

そうです。では、なぜ我々は、大切な多様性を今もなお、ぶち壊しているのでしょうか。私がずっとずっと疑問に思ってきた答えのヒントが坂田さんとの出会いによって得られたのです。

 

それは「内的自然(ないてきしぜん)」です。

内なる自然とも言います。

 

この内的自然を端的に説明することも、非常に困難ですが、ルソーが提唱した哲学的概念で、いわゆる「思想」のひとつです。本来すべての人が持ち合わせているもので、普段、我々が自然と呼んでいる物理的なものは「外的自然」といい、我々がその外的自然に共同で関わったり、享受することによって、普遍的に我々の内部に湧き起こる「自然に対する道徳心や倫理観」のことをいいます。

 

法律で禁止されていなくても、我々はむやみに動物を傷つけたり、殺めたりしません。川にゴミを捨てたりしません。山の木々や植物をむやみに壊したりしません。これは、かつては誰もが当たり前に持っていた人としてのルールとも言えるかもしれません。

1月の吉野川。江戸時代に建てられた第十堰から、遠くには高越山が見える。
1月の吉野川。江戸時代に建てられた第十堰から、上流に向かって遠くに高越山が見えます。

 

しかし、資本主義のもとでは内的自然は解体されます。私的所有さえすれば、何をしても良い。地主なら、その土地をどのように扱おうがかまわない。住んでいる地域の環境でさえ、利にならないものは興味すら湧かないのです。逆に、自分の敷地内にお隣さんの植木の枝が伸びてきて落ち葉がその敷地内に落ちると、迷惑だと憤慨する。物質的な豊かさばかりを求めてきた結果、何かを失ったと感じるのは私だけでしょうか。

 

内的自然は、外的自然との具体的な関わりを通じてしか生まれないと言われています。水道をひねれば飲み水が出てくる。便利な暮らしですが、川とのつながりをイメージできなくなっています。休日に川でキャンプを楽しみ、悲しいことですが、ゴミを放って帰ってしまう人がいます。

 

私は若いころ、北海道をバイクで放浪した時期がありました。

大自然のなかで得た経験は、自分の存在がいかにちっぽけかを感じることが多かったし、各地で触れた人の暮らしの中にある「豊かさ」には、法律的なルールとは違った、人として大切にすべきものを学んだ気がします。外的自然とつながることで、内的自然を自分の中に築けた経験だったのかもしれません。だから、ずっとずっと疑問に思ってきたのかもしれません。

 

私が神山しずくプロジェクトを通じて、本当に成し得たかったことが、ようやくはっきりしてきました。「世界の人々に、この内的自然の大切さを伝え、広げ、本当の意味での豊かな暮らし、社会を取り戻したい。」

いまでは、そう強く願うようになりました。

 

外的自然と体験を通じた繋がりでしか得られない「内的自然」

私自身、まだ完璧に捉えられていないかもしれない「内的自然」

この神山という場所で、いったい何ができるのでしょうか。

いったい何から始めればいいでしょうか。

 

その足がかりとして、この春、神山町内で環境改善のワークショップを企画中です。改めて、お知らせできればと考えています。

2024年は、内的自然について熟考し、行動に移していく。

そんな年にしたいと思っています。

 

ぜひ、皆さんのお知恵やお力添えをいただけますと幸いです。

ご感想やご意見なども、ぜひお寄せください。お待ちしております。

 

令和6年1月5日

神山しずくプロジェクト 代表 廣瀬圭治

 

ルサンチマン(仏:ressentiment)フランス語で「憤慨する人」を意味する言葉です。

弱者が敵わない強者に対して抱く「憤り・怨恨・憎悪・非難・嫉妬」といった感情を指し、弱い自分は「善」であり、強者は「悪」だという「価値観の転倒」を意味します。